レキオ島唄アッチャー

パナリ焼とザンの島・新城島、その3

人頭税時代と新城島の暮らし
 『竹富町史第5巻 新城島』から紹介する。
 1750年(乾隆15)5月3日付けの「覚」…には新城村の与人(ユンチュ、村長格)や目差(メサシ、助役格)らがその前年に蔵元に提出した「覚」も添付されていた。その「覚」によると、新城島はもともと土地が狭い上に、石ころだらけの痩せ地であった。他の村に比べると、同じ面積の土地を耕すにも2倍の労力を要し、しかも収穫は5分の1程度であった。
 そこで百姓たちは、1722年(康熙61)に古見村(西表島)の「崎枝」に通って耕作するようになった。新城島では、水も塩分の濃度が高かったので、生活用水は「崎枝」から運んでいた。また、薪も少なかったので古見から採って来た。それでも農業だけでは生活するのは難しかったので、水甕や炉や土鍋などの焼物をつくったり、筵(ムシロ)や箕(ミノ)などの農具を作って、石垣島や西表島の村々で売り歩いて生活の足しにしていた。1739年から1746年の間に数回も「大風」(台風)に見舞われたので、百姓らは草の葉やそてつなどを食べて生き延びた。
 (注・西表島の大野ヤスラ、仲間野、崎枝、やしら野に通って作物を作り、南風見にも耕作地があった。
家を造る材木や、通耕に必要な舟を造るための材木なども切り出した。)

 明和の大津波
 大きな被害を受けたのは、離島では黒島と新城島であった。両島とも平坦な小島であった 新城島の人口554人(男305人、女249人)の内205人(男70人、女135人)が溺死した。島の総人口の37%にあたる。住家全壊は184戸、畑の流失は100町歩に及んでいる。349人が生き残り、もとのとおりに村を再建した。
 新城島の人口は、疫病などで減少し続け、1873年(明治6)には167人となった。その後、人口は徐々に増えて1933年(昭和8)には最高の555人となり、大津波前の人口を上回った。 
                       ジュゴン、鳥羽水族館
                   ジュゴン(鳥羽水族館HPから)
 ザンの捕獲から(島人の暮らし)
 昔の新城島では焼畑農業が行われ、毎年10月頃から荒野を焼き払い開墾し、粟播きをするが、粟播きが終わると、旧暦1月頃にかけて、厳しい冬の寒さにもめげず、海を渡ってソーデー(現在の西表島大原)に、近親者同士でグループをつくり男世帯で泊まり込み、田植えをした。田植えが済むと休養を取る暇もなく、1週間から10日くらい島を離れ、西表島、小浜島、石垣島の沿岸を次から次へと回航し、ザン捕りに精を出したという。
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