レキオ島唄アッチャー

パナリ焼とザンの島・新城島、その2

  貢物となったザン(ジュゴン) 
 人頭税といえば、新城島の人たちは、他島の人にはない上納品が義務づけられていた。「ザン」と島の人たちが呼ぶジュゴン(海馬,儒)である。
 新城島の近海にはザンがよく現れたらしい。琉球王府時代に島の人々は、特別の海上権を与えられて人頭税としてザンを献納するよう特命をうけていた。島は両島とも土壌が浅くて農耕に適せず、用水は塩気が強くて水田もなく、稲作ができなかった。そのため人頭税が上納できない状況であった。そこで王府からザンを献納するように示達された。
 だが、それはどこにでもいるものではない。両島人は粟播きや、西表島における通耕の田植えが終わると、1週間から10日間も島を離れ、西表島、小浜島、石垣島の沿岸を次から次へと回航して探した。八重山では新城島の近海から西表島の南東側一帯の海に好物の海藻が豊富なため、たくさん生息していたらしい。
 捕獲するとき、屈強な男たちが三反帆船に乗り、ザンが海藻を食べたあとにアダナス(アダンの気根)で出来た網を張り巡らしておく。いったん引き揚げ、ザン漁の大漁を祈願したというアールウガン(磯御嶽・東御嶽)で大漁祈願をし、神前の斧と鉈を受け取り、再び海に出て漁場の網に入ったザンに近寄り、尾部の急所を一撃する。飛び上がって空中で一回転して落ちたところを皆で捕獲する。
 捕獲したザンを島に持ち帰ると、御嶽で待ち受ける人たちの手で解体された。王府では安産の妙薬として、その乾燥肉を珍重したらしい。そして、肉は石垣島の蔵元を通して琉球王府の国王に献上した。頭や骨は大願成就のしるしに、アールウガンに奉納された。戦前までその骨が残っていたらしいが、今では見ることはできない。
 ザンの頭蓋骨は、上地島ではアールウガンに奉納した。下地島ではナナゾウワン(七門御嶽)に奉納し、それぞれ豊漁と操業の安全を祈願した。また、節祭にはザンを捕る内容の歌謡がユークイ(世乞い)とともにうたわれている。ザンの頭蓋骨を奉納し、御嶽信仰で尊崇している所は、沖縄では新城島の両島だけである。

 人頭税に泣いた島
 山のないパナリには、昔から田んぼはなく、農耕はもっぱら黍や粟などが中心であった。それも昔は焼畑式の農耕であった。八重山では古くから島々を野国島(ヌングン島)、田国島(タングン島)とふたつに分けていたといわれる。山のある石垣島や西表島は田国島、隆起サンゴからなる、その他の島々(竹富島、黒島、新城島、鳩間島、波照間島が相当する)は野国島である。
 新城島では西表島に稲の出つくりをするようになったのは、近世以降のことである。おそらくは人頭税制が敷かれてからであろう。1637年(崇徳2)に制度化された人頭税は、15歳~50歳までの男女一人一人に税を課すというものであったが、その税は重く農民を苦しめた。とりわけ米のとれぬ土地に対しても貢物を課したこの税制は、新城島の人たちに海を渡って西表島に米をつくりに行くことを余儀なくさせたのであった(三木健著「パナリ島 廃校への軌跡」『coralway』1987年1-2月号)

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