レキオ島唄アッチャー

パナリ焼とザンの島・新城島、その1

パナリ焼とザンの島・新城島

 八重山諸島のなかで大きな西表島と黒島の間に二つの小さな島がある。俗称パナリと呼ばれる新城島(アラグスクジマ)である。二つの島の名は、上地島と下地島という。
 18世紀には人口が、両島合わせて最高705人いたこともあったが、現在、下地島は無人島になり、2013年5月末現在、両島含めて18人である。小さな島だけれど、八重山古典民謡を歌っていると、新城島を舞台にした曲がいくつかあり、興味を持っていた。しかも、琉球王府の時代から「パナリ焼」で知られていた。もう一つ、ジュゴン(ザン)を捕り王府に上納することが義務づけられていたことでも記憶されている。
  『竹富町史第5巻 新城島』を読んでみると「パナリ焼の里とザンの島」が島のキャッチフレーズになっていた。
なぜ新城島が「パナリ」と呼ばれるのか。島が二つに離れているからという説がある。そうではなく、八重山が6間切(マギリ、いまの町村)時代に、上地、下地両島が属していた黒島島嶼から「離れ(パナリ)」と呼ばれていたことが語源と考えられるという(同書)。
 本書のなかから、関心のあるパナリ焼とザン、民謡にかかわるところを中心にかいつまんで紹介する。 
                    新城島、パナリ焼展示館から
                     上地島と下地島からなる新城島(「パナリ焼展示館」から)                         
 パナリ焼
 近世から近代にかけて八重山諸島を代表する土器といわれ、パナリ焼という。
起源は明らかではないが、一説では中国からの漂着人によって伝えられたのではないか、ともいわれている。樹液をすり、手びねりで形を作り、それを露天で茅やススキの火で焼成した弱くて脆い焼物で、今でも現物を見ることができる。
 『参遣状』(八重山と首里王府の報復文書集)によれば、島は農業も水も続かないのでパナリ焼を作って村々島々で商いして生活していたとある。その種類も鍋、釜、水がめ、たらい、骨壺、香炉、花活けなど多数に上る。
 人頭税時代は貢納品として作られていたようで、宮良家の家譜と子孫の伝承によると、新城与人(ユンチュ、村長格)であった宮良信包が蔵元に申請して人頭税としてのパナリ焼は廃止された。焼物は1857年(咸豊7)ころまで焼かれていたようである。その後、年貢は粟貢に変更されたと伝えられている。
 下地島では、ナナゾウワン(七門御嶽)の南側や井戸端付近に焼き窯の跡があった。上地島でも焼いた形跡は3、4カ所ほどある。
 人頭税時代にパナリ焼にまつわる男女の哀話がある。それはパナリ焼と交換された女性が一生を台無しにされた話として有名である。そのことは竹富島の民謡(仲筋ぬヌベーマ)としてうたわれている。 
                    骨壺として使われたパナリ土器(復元)、パナリ焼展示館から
           骨壺として使われたパナリ土器(復元)=「パナリ焼展示館」から

 新城島とパナリ焼
 「島が小さいため、粘土が発見されなかった。土に粘着力が無ければ焼物にならない。そこで島人は考へた。土に粘着力をもたらすために蝸牛を入れて搗き交ぜることにした。之で色々の器物の形を作、蔭干しにして窯に入れ、藷蔓や豆蔓などを3日3夜焚いて漸く焼き上げた」(宮良當壮の「八重山群島の土俗工芸」)
 喜舎場永珣著『八重山民謡誌』に「古老の伝承」が登場する。
  「パナリ焼は昔支那(中国)人が新城島に漂着してきて、土地の女を妻にめとり島に定住した。その人物が伝えた焼物である。島の土は粗悪で粘土を捏ねても粘着力がないため、草木の粘液を混ぜて捏ねた上に、内外側にはカタツムリや貝肉などの粘液をすり塗って、茅やススキで焼いたものであると語った」
  <なぜ、小さな島で焼物が発達したのか不思議だった。中国から伝わったという伝承があるそうだ。それにしても、島には焼物に適した粘土があったのかと想像していたが、そうではない。土に粘着力を持たせるために、並々ならぬ苦労があったことがうかがえる。それにしても、カタツムリが使われたというのは、ビックリである>
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