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「ジョン万次郎物語」、21年ぶりに船長と対面

  ホイットフィールド船長と21年ぶりに対面
中浜万次郎は1870年8月、普仏戦争視察団の一員に選出された。薩摩の大山弥助、長州の品川弥次郎、土佐の板垣退助など、そうそうたる顔ぶれで編成された。視察団は太平洋を横断し、大陸横断鉄道でニューヨークに到着した。
 万次郎は30日朝、ホイットフィールド船長宅を訪問するため汽車でフェアヘブンを訪れた。21年ぶりの対面に胸がつまりしばらく言葉も出なかった。家族全員が揃い、夜明けまで思い出の話し合いが続いた。翌朝、近所の人たちが集まり、万次郎を暖かく歓迎してくれた。地元の新聞が取材し、「一人の捕鯨船長の漂流少年に対する愛情は、少年をフェアヘブンの公立学校で教育を受けさせた。その結果、彼は今日本の捕鯨産業の振興と開国のために活躍し、米国と日本の交友関係の絆を結ばせている」と報道した。 
                     ホイットフィールド船長万次郎と
                 渡米した万次郎とホイットフィールド船長との再会とみられる写真      
 晩年の万次郎は鎌倉の別邸で悠々自適の生活を送っていた。若いころには、閉ざされた日本に海外修好への扉を開かせるために尽力し、幕末から明治初期にかけては日本の政財界に活躍した多くの人材育成に貢献した。しかし、政治にかかわりある職務に就く機会は少なかった。本人もそれを望んでいなかったようである。
 
 晩年に至っても政治の権力に反発するかのように、身辺の生活困窮者に対しては細かな配慮をして援助の手を差し延べていた。
 明治初期に活躍した洋画家高橋由一が、衣食に乏しく生活に困窮していたころ、見兼ねた万次郎は、知人に呼びかけて彼の生活や修業を手助けしたこともあった。後に日本の美術界の名を成した。
 1898年(明治31)11月12日、息子の手を握って永い眠りにつき、71歳の生涯を閉じた。
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              151年越し子孫の対面を報じた「琉球新報」2002年5月12日付
 「ジョン万次郎物語」を著した島袋良徳さんは、35年前に万次郎ゆかりの地である大渡海岸に記念碑を建立することや万次郎の子孫と万次郎が滞在した豊見城市翁長の高安家の子孫との対面の準備を進めていたという。
 2002年5月11日に、万次郎直系の4代目、中浜博氏が豊見城市翁長の高安家を訪れ、5代目当主、高安亀平氏と151年越しの対面が実現した。その後も交流は進んでいる。
 記念碑は、「ジョン万次郎上陸之地記念建立期成会」がつくられ、建立計画が進められている。
 これまで紹介した島袋良徳著「ジョン万次郎物語」は、米須在住で、期成会メンバーとして熱心に活動する和田達雄さん(高知県出身。別名、和田・ジョン・たつお)の手で、手製の冊子にまとめられた。それによって読むことができた。感謝である。
 
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