レキオ島唄アッチャー

「ジョン万次郎物語」、日米交渉の陰に置かれる

  日米交渉の陰に置かれた万次郎
 「ジョン万次郎物語」の続きである。
  1854年1月、ペリーが再び来航し、米船が石炭、薪、水、食糧などを補給する基地として下田、函館2港の開港を幕府と取り決め、3月に日米和親条約を締結した。万次郎が訴えてきた日本の補給基地開港がやっと実現した。しかし、交渉の場にも幕府は万次郎を使わなかった。
 「万次郎を通訳に使えば、永年世話になったアメリカへの恩義を思いアメリカのために心が動くであろう」と疑う意見や「スパイの疑いはないが、アメリカの不利になることは好ましくないであろう。米国人と会わすことは避けるべきだ」などの警告もあり、幕府重臣の多くは疑念を抱いていた。
 勘定吟味役の江川太郎左衛門が、万次郎を幕府直参に登用した。万次郎は「大型造船を許可して捕鯨漁を興すことが国益になる」と説いた。江川を通して、熱意が幕府に通じ、大船建造禁止令が解かれ、各藩で西洋形造船に関心が高まり、幕府は万次郎にアメリカ航海術書の翻訳を命じた。日本最初の『アメリカ合衆国航海学書』が出版された。 
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          冊子「ジョン万次郎物語」の裏表紙 

 1857年4月、江戸の開設された講武所の軍艦教授所の教授に任命され、航海術の指導に当たった。10月、捕鯨事業を興すため函館で捕鯨技術の伝授を任命され、捕鯨基地の調査や漁業者に捕鯨の有望さを説き回った。59年2月、幕府から「捕鯨の御用」に任命され、小笠原近海で西洋型帆船を使っての西洋式捕鯨実習で海洋に出た。
 
 荒波にもまれ太平洋を行く咸臨丸
                  咸臨丸復元模型
                              咸臨丸の復元模型
幕府は日米修好通商条約の批准のため、使節団をボーハタン号で米国に派遣し、護衛艦として咸臨丸を送ることにした。司令官に軍艦奉行の木村喜穀、艦長に勝海舟、通弁主務(通訳)に中浜万次郎が任命され、総勢96人が船出した。便乗していたジョン・ブルック海軍大尉が残した航海日誌で艦内の動向が明らかにされている。
暴風雨にあったとき「常に艦主にたっていたのは万次郎のみ。ほとんど徹夜で艦長の役目を果たしていた」。あとで勝海舟は、航海中の指揮命令のすべてを万次郎に一任した。陰の名艦長であった。
 咸臨丸が浦賀に寄港して間もなく、万次郎は軍艦操練所教授を免職された。理由は、上司の許可を得ないで横浜港に停泊中の外国船に出向いたことだった。
 万次郎は混迷する幕府の政治や外交にたずさわる幕臣たちに開国のもたらす国益の大きさを機会あるごとに説明していた。これが理解されず、逆にアメリカの利を計る言動であると誤解され、万次郎は常に政治や外交の影の場において活動させられてきた。このような偏見や差別にもめげず、一途に日本の開国による文明開化の招来に尽くす万次郎の決意は一層に高まるばかりであった。
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