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「ジョン万次郎物語」、薩摩へ送られる

 薩摩へ送られる
 取り調べに当たった薩摩役人たちは、万次郎があまりにも外国の事情に詳しいことに驚いた。在番奉行は、万次郎は日本の開国に臨んで最も必要とする人材になると予察し、野元一郎を急便として薩摩に帰藩せしめ、藩主島津斉彬に調査始末を報告させた。
 早期開国を望んでいた斉彬は、万次郎から外国情報の得られることを期待して急ぎ鹿児島に召還することを決め、5月に護送するよう命じた。梅雨に入り、風雨の強い日が続き5、6月中に送還できなかった。
 万次郎は、片言の沖縄言葉を覚え、村の環境にもなじんでいた。高安家に滞在中の話が伝わっている。
 月夜の晩、万次郎が満月を仰いで泣いていた。わけを尋ねると「お母さんの夢を見た。元気でいればいいが心配でならない。早くお母さんに会いたい」と言い、その心の優しさに、高安家の主人も心を打たれたと言う。 
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                           中浜万次郎
 旧暦7月11日、薩摩役人が来た。本国へ送還するから出発の準備を命じた。翌朝、多くの村人が集まり、涙を流して別れを惜しむと、万次郎は沖縄言葉で「皆も元気で、もし私の手紙が届かなかったら殺されたと思って下さい」と別れを告げ、出発した。
 那覇港から18日、薩摩の官船大聖丸で出航した。12日目に鹿児島の山川港に着いた。斉彬は3人を賓客なみに扱い、人払いをして万次郎からじかに米国事情を聞いた。島津公の熱意に感心した万次郎は、英語まじりの変調な日本語でアメリカ国民の自由・平等や文化の実情を細かに語った。万次郎が与えた海事知識は、後に薩摩藩の海事政策に役立った。
 3人は、幕府の取り調べを受けるため長崎奉行所へ送られた。漂流から帰国までの事情を問いただし、踏絵を終えると牢屋に入れられた。9カ月を過ぎ、1852年6月に奉行所の判決があり、3人は土佐藩から来た役人に引き渡された。

 11年ぶりに母と対面
 土佐藩でも70日余の取り調べが続いた。土佐藩主は特に万次郎からの外国事情の聞き取りが目的であった。藩から解放され、中ノ浜に着いたのは10月5日であった。待ちわびた母との対面は、11年と10カ月ぶりにかなえられた。
親子水入らずの生活もわずか、万次郎は藩主に呼び出された。侍に取り立てられ、高知城下の教授館(学校)の教授に任命された。名字帯刀を許され、故郷の地名をとって中浜万次郎と名乗った。
 教授館に通う若者には、14・5歳の後藤象二郎や三菱財閥の創設者、岩崎弥太郎などがいて、民主主義制度によるアメリカの国情や世界の海を航海した体験談に耳を傾けた。間接ではあったが、坂本龍馬も大きく影響を受けたといわれている。 
 1853年にペリー艦隊が浦賀に来航。幕府は万次郎を呼んでアメリカの国情を聞き早期開国を訴える万次郎を召し上げ、幕府直参の役人に登用した。
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