レキオ島唄アッチャー

「ジョン万次郎物語」、翁長村にかくまう

 翁長村にかくまう
 「ジョン万次郎物語」の続きである。
 検者は「3人を那覇に護送するように」と間切長に命じた。番所を出発した一行が豊見城間切、小禄間切を過ぎ、ようやく湖城村(クグシクムラ・現国場川南岸地域)にたどり着き、夜明けまで休もうと腰をおろすいとまもなく、首里王府から急便が来て命令を伝えた。「漂流者の3人を那覇に入れてはならぬ。豊見城間切の翁長村へ連れて行け」。
 那覇の手前までたどり着いた万次郎たちを引換させた理由は、時の琉球国外交官・小禄親雲上(ウルクペーチン)から那覇里主(市長役)に出した文書で明らかである。
 漂流者は那覇に送るべきであるが、万次郎は米国に10年も居て教育を受けて居り、普通の漂流者とは事情が違う。那覇には英国人のベッテルハイムが滞在中であり、彼に万次郎を会わすと都合が悪いとあり、当時薩摩藩から琉球に派遣されていた在番奉行による内々の取り計らいでなされていた。 
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              万次郎が滞在した高安家の当時の風景の再現図
 翁長村で薩摩藩から派遣された役人が取り調べにあたった。3人が国外在住したことをとがめることもなく、終始おだやかな顔で取り調べにあたった態度に安どの胸をなでおろした。
 万次郎たちの住まいにあてられた家は、徳門家(徳門は屋号、高安家)の家族が住んで居た茅葺きの家であった。家の人は急いで隣に茅葺きの家を建て、家族8人が移り住むようになった。3人をかくまった家は高い竹の柵で周囲をかこい、近くには宿舎を設けて薩摩の役人5人と琉球の役人2人が交代で詰め、監視にあたった。それでも3人は日常生活には何の不便もなかった。食事は琉球王府から3人の調理人が派遣され、米飯に豚・鶏・魚肉や豆腐・野菜などを使った質の高い琉球料理を揃え、時には王府から贈られた泡盛が添えられるほどのもてなしであった。
                   ジョン万次郎記念碑
                       豊見城市翁長に建立されたジョン万次郎記念碑
  このように、漂流者である3人を特別にもてなすことは、薩摩藩の政策的な配慮にもよるが琉球王府にとっては、漂流者が土佐藩の住民であれば、王府が大事にもてなすべき過去の事情があった。
 1705年7月、琉球の進貢船が福州からの帰りに遭難して土佐清水の港に4か月間滞留した。役人、乗組員82人が世話を受け、死亡した1人は地元蓮光寺境内の墓地に墓碑も建立して丁重にまつられた。進貢船が帰国の際、土佐藩主は狩野探幽画3幅の外に2幅の掛物や尾戸焼陶器などを船に託して琉球王に贈り、船員に対しては多量の食糧品が贈られた。45年前の出来事であった。この度の漂流者は土佐藩に対する返礼の機会でもあった。
 その後、取り調べはなく、万次郎は柵を抜けて積極的に村人たちと交わり、旧暦6月25日の村の綱引にも参加した。

 
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