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琉球と土佐、その深い縁。竹内經氏が講演

 琉球と土佐―その深い縁(エニシ)その歴史を紐解く
 
 沖縄ジョン万次郎会の定期総会が5月23日、豊見城市の市社会福祉協議会で開かれた。
 総会では、9月12日に第4回ジョン万次郎サミットin沖縄&沖縄ジョン万次郎講演会を開くなど今年度の事業計画案など議案を採択した。 
 総会後には「美ら島沖縄大使」をつとめる竹内經氏(静岡県出身)が「琉球と土佐、その深い縁その歴史を紐解く」と題して講演した。 
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 竹内氏は、1851年に琉球の小渡浜(現糸満市)に上陸した万次郎らが、那覇への護送が中止され、豊見城・翁長(オナガ)村に留め置かれたのはなぜか、その背景について次のようにのべた。。 
              
 富山藩が北前船で運んできた昆布を大坂堺の海産物問屋には卸さず、極秘に薩摩藩へ横流し、見返りに高価な「唐薬種」(中国渡来の薬)を薩摩藩から手に入れようとした。薩摩藩は当時、長崎しか許されていなかった「唐薬種」を秘密裏に琉球を介して昆布と引き換え富山にさばくことを企んだ。「唐薬種」は富山藩で和薬と調合され和漢薬として全国に広まった。抜け荷として運ばれてきた昆布は、中国へ輸出された。
 秘密裏に取り引きされていた<昆布と唐薬種>の交易の現場を万次郎らに知られたくなかったのが翁長村留め置きの理由の一つであろう。
 また、イギリスの宣教師・ベッテルハイムと万次郎らとの接触を懸念していたこともある。
 万次郎らが7か月もの長期に留め置かれたのはなぜか。
 万次郎が上陸する前年の1850年、琉球から江戸に向かう「江戸上り」(99人)の一行が、江戸を発ったのは12月22日。琉球への帰還は翌年4月13日と見られる。万次郎たちの薩摩への護送は当初6月14日出立だったのが、急きょ1か月延期された。薩摩から帰った船を修理して護送船にしたのではないか。
 万次郎たちは7月11日、翁長村を出立し、同月18日、ようやく大聖丸で薩摩へ向かった。護送が遅れたのも、船の調達そのものの裏事情がからんでいたとも推理できる。
 護送船の手配を含めて、王府側が多忙を極めていたことも、護送日程がずれ込んだ要因の可能性が高い。  
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 琉球王府が万次郎ら土佐漂着民に配慮した思惑について、次のようにのべた。
 琉球人が乗った船が時化に遭い、黒潮にのって土佐沖に漂着した記録が18世紀に少なくても3回ある。1705年に80人(滞在5か月間)、1762年に50人(2か月間)、1795年に31人(逗留日数不明)が保護され滞在した。
 滞在期間の諸経費は現在の貨幣に換算して合計3億円に近いと考えられる。
 琉球人が土佐に漂着して保護されたことへの恩義を詠んだ琉歌がある。1762年 長嶺筑登之(チクドゥン)の琉歌である。
 「白浜の真砂 よみやつくすとも 土佐の御恩せや さんやしらん」(白浜の真砂は数えることは出来ても、土佐の御恩義は数えることは出来ません)。
 土佐の万次郎たち3人を7か月間保護した琉球王府の支出した経費はどのくらいだったのか。資料がない。 
 琉球王府と土佐藩の“貸し借り”、恩、絆、縁(エニシ)の所以がここに見出すことができる。琉球王府は、万次郎たちの漂着の報を受けて、昔、受けた土佐藩への恩義、丁重なる持て成し、気遣いを優先させたことはいうまでもない。
 
 9月のジョン万サミットin沖縄と併せて開かれる「第10回沖縄ジョン万次郎講演会」では、高知で発行されている「土佐史談 中濱万次郎特集号」に沖縄から執筆した神谷良昌、當眞嗣吉両氏が講演することになっている。
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