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沖縄戦の戦跡を訪ねて、首里城の第32軍司令部壕

 首里城の第32軍司令部壕
 沖縄戦の第32軍司令部壕跡を見た。首里城に何回も行っていながら、まだ見ていなかった。
 説明板が設置されているのは第一坑道入り口のある場所。世界遺産の園比屋武御嶽(ソノヒャンウタキ)石門の裏手になる。
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 第32軍は、1944年3月に創設され、同年12月から、多くの学徒や住民を動員して司令部壕の構築が進められた。
 司令部壕は、首里城の地下に張り巡らされている。南北400㍍、総延長1キロメートルに及ぶ。壕内は5つの坑道で結ばれていた。
 坑道入り口は鉄柵で封鎖されている。中をのぞくと通路の壁しか見えなかった。           
 1945年3月、空爆が激しくなると、第32軍司令部は地下壕へ移動した。「司令部壕内には、牛島満司令官、長勇参謀長をはじめ総勢1000人余の将兵や県出身の軍属、学徒、女性軍属などが雑居していました」と説明板に書かれている。 しかし、県が設置した検討委員会の答申では、女性軍属の後に「慰安婦」の記述があった。また「司令部壕周辺では、日本軍に『スパイ視』された沖縄住民の虐殺なども起こりました」との説明もあった。いずれもバッサリと削除されてしまった。
 検討委員会の委員への相談もなく、一方的に削除し、委員が抗議して話し合うことになっていたのに、面談予定の前日に削除した説明板を、また一方的に設置した。
 説明板は、第32軍の創設、司令部壕内の様子、司令部の南部撤退を説明している。日本軍司令部は、1945年5月22日、南部摩文仁への撤退を決定した。「本土決戦を遅らせるための沖縄を『捨て石』にした持久作戦をとるためでした」。
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 5月27日夜、本格的な撤退が始まった。「司令部撤退にともなう軍民混在の逃避行のなかで、多くの将兵の住民が命を落とすことになってしまいました」と説明している。
 これも翻訳文では「捨て石」と南部撤退で犠牲者が増えたことの説明が削除されているという。近くにもう一つ、坑道入り口らしきものがあった。
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 「慰安婦」や「住民虐殺」は、日本軍の本質、沖縄戦の特質を語るのに欠かせない。いずれも壕内にいた多くの将兵や学徒などの証言で確認されている事実である。説明板は、2012年春に設置されたばかりだが、説明板の記述を答申通りに戻すことはすぐにでもできること。ぜひ改正してほしい。
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