レキオ島唄アッチャー

伊江島の歴史から、島政の推移

 島政の推移
 『伊江村史』の伊江島の歴史の紹介の続きである。

 北山時代
  1322年怕尼芝(ハニジ)按司が中北山を亡ぼして、北山王と自称し中山から離れて独立したが、領地は恩納山田城以北の国頭地方であった。この時伊江島は北山王の勢威に恐れてか単(ヒトエ)に入貢したと中山世鑑(王府の史書)に書いている。
 (注・今帰仁城の北山王を討ったのは1374年とも言われる。1383年、明国と冊封<サッポウ>関係を結ぶ)
 伊江島はこの時から歴史の舞台に登場、新たな支配体制の中に組み入れられた。当時の島の推定人口は280人位で戸数は50戸以内であった。 
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                       今帰仁城跡
 第2尚氏時代
 伊江島の特殊性を述べると、島の発祥から第2尚氏初期まで、伊江島には按司は居らず、北山、第1尚氏の時代何人が島政を司どったか不明である。多分有力な佐辺根所の当主佐辺家がその衝に当ったのではないかという推測はできる。従って16世紀に始まった按司掟制(注・按司を首里に引き揚げさせ、その領地の政治を按司掟=アジウッチ=に代行させた)もむろんなかったわけである。だから番所の機能は他間切よりも早くから、実質的には存在していたのではないかと思う。文字のあるなしにかゝわらず島政は島民によって行われていたとみなければならない。

  しかる所按司掟制を降る30年後1559年に伊江按司が誕生し総地頭になっている。この按司は従来の按司とは歴史背景が違う。従来の按司は土着の按司であり領民と生活環境を一つにしていたものだが、伊江按司は王子ということで天降りの按司であった。
  いわゆる遙任(ヨウニン、現地に赴任せず執務することを免除された官)の按司で最早領地に居住する必要もなかった。では就封後按司掟を差遣して行政指導をしたかというと、その記録も全くない只放置されたまゝである。
  按司掟は来ていないが、伊江大ノロ(注・君ノロともいう)が五ノロ(注・大勢頭ノロ、東ノロ、佐辺ノロ、仲ノロ、大水ノロ)の上に指導取締役として駐在しているが他間切には其の例がない。これは按司掟の代役もしたようである。
  大ノロの引退後1670年頃に伊江島に初代在番が駐在した。
  1736年在番出米という新税が全琉に課せられている。14人の在番役の扶持米61石とある。それまでの在番の扶持は島持であったのが、上記の年から王府持になったようである。理由は王府から任命した役人だからという。

  『伊江村史』の伊江島の歴史の紹介を終わる。沖縄本島に近い離島としての特有の支配と重い課税に苦しめられた歴史があったことがよくわかった。
 伊江島の沖縄戦と戦後の基地反対の土地を守る闘争については、ブログで「沖縄戦の戦跡を訪ねる」の中で「沖縄戦の縮図・伊江島」をアップしてあるので関心のある方はそちらも見てほしい。
 
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