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伊江島の歴史から、支配者

 伊江島総地頭
 『伊江村史』の伊江島の歴史の紹介の続きである。

 按司総地頭
  1,559年(嘉靖38)、始めて伊江島に総地頭が配置された。最初の伊江按司(アジ)には尚清王の第7子尚宗賢が任命された。名乗は伊江朝義と云い、伊江王子と称した。伊江御殿(ウドゥン)創立の祖である。
  爾来廃藩まで320年間、伊江御殿と伊江島の支配関係は続いている。この例は他にはないのではないかと思われる。これまで伊江島は北山(琉球が三国に分かれていた時代の国)又は北山監守に年貢を納めていただけで直接の支配者をもった歴史はない。

 <第二尚氏の3代目、尚真王は6王子、4代目、尚清王は7王子がいて、併せて13王子が王子地頭になって各間切=マギリ、いまの町村=に配置された。まだ単独領主だったが、王子が増えると配置する間切が不足するようになった。>

  代を重ねるごとに王子が増え按司家を創立するので間切数には限りがあり、後には不足を来たし、止むなく大きな間切を分割したり、2間切から分割して1間切を新設しなければならなかった。
  これで王子衆の増加には何とか対応できたが、高級役人である親方(ウェーカタ)にも知行を与えなければならず、ついに苦肉の策として用いられたのが両総地頭制という変則領主制である。既に按司総地頭の配せられている間切に2人の総地頭を任命するほかなかった。親方総地頭が配せられると又百姓地が減って地頭作得地に廻さねばならなかった。伊江按司が任命された時はすでに領地に赴かずして其の地を領する遥任の制に替わっていたから、ついに島では按司と接触する機会もなく、家臣である士にも接することなくして明治の廃藩を迎えた。これは1526年尚真王の時、地方に居た諸按司を皆首里に聚居せしめ、遙かに其の地を領せしめ兵柄(へいへい、兵権に同じ)を解散し以て国の安泰を計ったと中山世鑑(王府の史書)に書いてある。 
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                   伊江島のタッチュー(城山)
  <注・王子が増えるのには間切を分割するなどして対応したが、親方に知行を与えるために、一つの間切に2人の総地頭が任命された。その際は、百姓地を減らして地頭作得に振りむけたので地頭家の収入には何も響かない。
  百姓地は俗に夫地=ブージ=と言い、農家に割り付けられた土地のこと。自由に耕作できるが、売買や金銭貸借の抵当は禁じた。地頭地は元来百姓地の一部を割いてその収益を按司地頭、総地頭及び脇地頭の役得として与えたもの。
2人の総地頭が任命されたことで、百姓地が減った分百姓の収得が減少したのだから損害は百姓にしわよせされたという。>

  親方地頭と伊江殿内
  伊江王子地頭任命後70年、1628年(崇禎1)、佐辺親方が伊江島総地頭に任命されている。島は両地頭家に年貢を納めることになった。1708年(康熙47)の地頭作得帳によると、両地頭ともに76石の石高となっている。姓の佐辺は伊江島の12地名からとったものであろう。1729年伊江親方の伊江島総地頭任命になるまで100年間の勤務とみられる。

  伊江按司5代目朝敷の4男朝叙は累進して1720年(康熙59)三司官に上り総地頭に任命された。初め久米島具志川間切の総地頭に任ぜられ、1729年(擁正7)伊江島総地頭に転じている。其の家を伊江殿内(ドゥンチ)と称したが、のち1835年(道光15)其の姓を川平に改めたので、その家を川平殿内と称するようになった。この家系は1879年(明治12)の廃藩で廃職になるまで世襲した総地頭である。7代150年に及ぶ。 
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                          首里にある伊江殿内庭園(国指定名勝)
  参考、18世紀初期の諸地頭は、按司地頭38人、親方地頭41人、脇地頭292人、計371人いた。各間切と各村にはあます所なく地頭が配置されていた。その外に王府役人には知行衆というて213人いたから総計で584人になる。これが貴族階級である。当時の間切数は43、村の数は487である。79人の総地頭資格者を43の間切に配置するには勢い重複するのは止むを得ない。
 
 地頭家の支配関係
  各間切島は王府の直轄であるから地頭家は名目上の領主である。実質的な支配権は王府にあった。本土の大名のような絶対的支配権はなかった。封建制ではなく官僚制組織であった。領主は何一つ自由裁断で領地や領民を処断することはなかった。領内の開発ということも王府の規定によるものであって、独特の施策というものはなかった。
  地頭地に性質について尚敬王25年(1737)に出た法令を左に適記する(略)。これによると地頭地なるものは功ある人々への恩賞として与えられたものであること、領地と云うことでないことがわかる。地頭地からの収穫量に対して百姓並の代(税率)をかけた王府への上納を出すことになっている。
  地頭地を耕作した百姓と地頭の得分を明確にしている。全量の3分の1は百姓得分であり、3分の2は地頭の得分になる。王府へ納める上納は地頭得分の中から出し残りは地頭の実質的な得分になる。
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