レキオ島唄アッチャー

伊江島の歴史から、貢糖

 貢糖島に指定
 『伊江村史』の伊江島の歴史からの紹介の続きである。
 沖縄最大の産業である製糖技術は1623年儀間真常の努力によって中国からもたらされたものである。製糖法ひと度伝わると農民はとびついた。
 百姓は金になるキビ作りに走り、田地をもキビ作りにしたので米作の減収を来し、遂に米租の1万石を納入することに支障を来したと云う。17世紀後半に出た政治家羽地王子摂政は薩摩に請うて、米租の代納として砂糖で代納させることの許しをうけた。
  薩摩は専売制の転売で利益のあることを知っているので快く許したが、それについては制限を加えた。米租の3分の1にあたる約3千石分に相当する砂糖代納である。
  これは1666年の取決めで薩摩侵入50年、砂糖伝来後40年のことである。早速砂糖座と云う役所を王府内におき、砂糖奉行と云う最高責任者を置いて砂糖の生産から納入まで管理させた。これが貢糖制度の始まりである。
  これは米作間切に適用されるべきものであるにかかわらず、どうしたことか米作しない伊江島が例外として貢糖島になっていることは不可解である。耕地が広いから芋作りに影響なしとみたかもしれない。伊江島の場合代納ではないから新課税である。他の米作間切と均衡のとれないものでそれだけに苦しんだ。米租の3分の1の制限を超えて砂糖の生産が行われ、主食糧の確保が心配になり、もう一つは砂糖の生産過剰で糖価の下落を来すとして対策が講ぜられた。それで生産を押へるために生産間切を指定すると共に作付面積を厳しく規制した。…
  島尻(15)、中頭(11)の全間切と国頭は金武、本部、今帰仁の3間切と伊江島が指定された。その他の間切や島ではもう造れなくなった。      
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                            城山からの眺め   
  田租の米の代納が建前であるが例外として喜屋武と摩文仁は粟代納を認めている。
  しかし伊江島の場合は代納を認めていない。耕地に余裕ありとしてか、貢糖として造らされた。外の指定間切では砂糖分は田租米が減るので代納糖として造ったわけである。しかるに伊江島の場合貢糖島だから雑穀租は減らず従前のまゝ据置かれている。
  19世紀半の記録によると島には砂糖屋が69敷あった。年間の製造能力は23万6000斤、樽にして2千丁が先ず生産力の限界であったろう。
  では此23万6000斤の使途がどうなっているか調べてみるに、その内訳は 
 薩摩へ計100400斤、王府へ計60700斤、地頭その他米代納計74900斤、総計236000斤(文久3年)
 右表のうち貢糖は薩摩への全高と王府へのうち御用意向(注・王府には御用意向と同売上、御手形売上の三種ある)とで約14万斤である。これは6公4民で雑穀の5公5民を上廻っている。

 製糖の実態
  王府に18万斤を納めた残りの5万斤内外の砂糖は地頭家に納める雑穀の代納糖や加勢糖などに振り向けられている。また番所役人の那覇詰諸費や島費の借金返済に充てられている。
  地頭は生活に必要な物資は村々に命じて納めしめた。これを手形入れと言い一種の徴発令書みたいなものであった。買上げ値段は定代帳(注・公定価格を記す)に定められているので文句は言へない。番所や村では時価で買って納めるのでかぶり(損失)がある。このかぶりは百姓の夫役銭納付の義務のある者に分担させたという。これを統並(トナミ)と言うた。伊江島は地頭から再々砂糖の手形入れがあって困ったようである。6千斤とか4千斤とか言う風に随時あったことが伊江日記によっても窺える。俗に泣く子と地頭には勝てないと言う古諺があるがその辺のことを言うのだろう。

 砂糖には貢糖、買上糖、焼過(タチクヮ)糖の名目があって性質が違う。貢糖は命ぜられた貢租で百姓に代金は払われない。11万7000斤がそれに当る。欠補糖も金にならない。買上糖は王府の許可で制限外に製造したもので1挺80貫文(1円60銭)で買上げる砂糖のことである。これは金になって百姓に払戻されるが、車(注・キビを絞るサーター車)や鍋代それに日用品を買うのと差引かれることになっていた。
  焼過糖は砂糖の出来がよく制限面積内で予想以上のできがあったとき、初めて百姓が自由販売することを許された砂糖を言う。しかしこれにも制約があった。属する村の全上納が完納するまでは個人だけで売ることはできずそれまで質草にとられた。
 
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