レキオ島唄アッチャー

伊江島の歴史から、按司の出現

 伊江島の歴史から

 伊江島のヤマト系歌謡を紹介したが、その際、『伊江村史』をひもといてみた。島の歴史そのものに興味がわいたので、ついでに伊江島の歴史を『伊江村史』からスケッチしてみたい。同書は、市町村史としては、とても詳細でよくまとまっていると思う。ただ、長大なので、そのなかから、個人的に関心のある事項だけをピックアップする。あくまで抜き書きである。

 中近世 按司の出現と伊江島
  北部では今帰仁(なきじん)の世之主に代って羽地按司怕尼芝(はにじ)が今帰仁世之主を亡ぼして世之主になり、今帰仁城に移った。後中山王に反いて王と称し独立する。
  北山王の支配範囲は南は山田城(注・今の恩納村)から北は国頭に至る北部一円と、これまで中山に入貢していた大島と伊平屋島が北山に入貢するようになった。そして新しく伊江島が入貢したので、伊江島ははじめて支配者をもつことになり、複雑な政治関係が生ずるようになった。 
  14世紀初めまで孤立していた伊江島は貢租もなく、祭事も自由に自主的に振舞ってきたが、これからは主従関係という苦しい政治経験をしなければならなくなった。
  伊江島では特に与論や永良部島、徳之島を兄弟島として親交があったと伝へられている。
 北山も中山にならい明国に朝貢して独立の姿勢を示している。明国への朝貢品として最もよろこばれた馬を伊江島に求めている。島の北部に馬の飼育場を設けて盛んに飼育させている。

  <ここでは、14世紀初めまでは、島の外部からの支配がなく、貢租もなく、祭事も自由に行ってきたが、初めて今帰仁の北山王の支配に組み入れられ、入貢するようになった経過が記されている。>
                 伊江島
             伊江島と島のシンボル・タッチュー(城山)
  尚巴志が「三山統一」の大業を成し遂げた。
   (尚巴志が北山、南山を滅ぼし、琉球を統一した)
 此の政変で伊江島は北山を離れ中山領となり首里中山王の支配に入る。年貢もこれまでとちがい那覇泊港に運送することになり、上納船も大型船に変り遠距離となるので、港のこと、航海術も北山時代とは大きく変わったとみるべきである。
 (以後、琉球王府の廃止に到るまで、首里王府の統治を受けた。)

 『伊江村史』は、「島の中世史話」として、次のような話を伝えている。
 一話、北山との交戦説
 往昔今帰仁の攻略にあい、島民は武器がなく舟漕用の櫂や豆打棒などで防ぎ戦ったという。
 二話、北山から三将派遣さる
 毎年島の穀類が実る時期に向いの島から野盗が舟で来て穀物を盗んでいったという。その退治を北山に訴えた所武士3人を派遣したという。
 三話、伊江島に軍馬を放牧させた話
 北山の命で島の北東の野原に軍馬を放牧させたという伝えがある。この馬はひとり軍馬だけでなく、明国皇帝への貢馬として飼育させたものと思われる。
 四話、北山はノロ職を置いて居城の霊所を護らしたという。そして村々の根神の取締りもさせたという。
 五話、第二尚王統時代に各間切島に駅亭を置いて命令下達の敏速を計ったようだから、伊江島も置かれたに相違ない。
 (六話は略)
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