レキオ島唄アッチャー

オキナワンロックの歩み。反骨精神

音楽性高めた反骨精神
矢継ぎ早にレコードを発売した「紫」は大ヒットを連発、日本一のバンドになっていた。ギターの下地幸雄以外は全員ハーフというメンバーで社会的批判・偏見・差別に対する反骨精神の内なる心の爆発が音楽性を高めていった。
  「紫」、「コンディショングリーン」、「サンディエゴ」解散後、80年代は「喜屋武マリーウィズメデューサ」の独壇場だった。沖縄ロックの女王、基地の街の聖母マリア、黄金のノドを持つ東洋の歌姫……等賞賛され、年間200回以上のライブツアーで益々パワーアップ。人気、実力共に沖縄を代表するバンドに成長してピースフル(1983年スタート、ピースフルラブ・ロックフェスティバル)もトリを務めるようになる。
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 名物ベーシスト・エディの海難事故による死亡で「コンディショングリーン」を継続できなくなった勝ちゃんはゲイト通りにライブハウス「ジャックナスティ」をオープン。勝ちゃんバンドとして数多くのメンバーを育成した。
 ピースフルの名物としての勝ちゃんは毎年新ネタのパフォーマンスを披露。ファンを裏切らないライブパフォーマンスを展開した。

 <特筆すべきは、紫の成功によって沖縄のバンドの視点がAサイン、アメリカ―相手から日本、本土へ変わったことであり、コピーバンドからオリジナル曲を創るバンドへと移行脱皮させたことである。紫によって自分達のオリジナル、バンドの特色、主義主張が大切だと云うことを教えられたロッカー達は、アメリカ―に気に入られるだけのコピーバンドではダメだと自覚させられ、より高度なバンドへの成長して行った。(「沖縄ロックの証言と軌跡」、喜屋武幸雄著)>

 若い世代に引き継がれる
 Aサインの時代のロックは終焉に近づき復帰時代が日本のテレビ文化の影響を受け、英語を歌わないジャパニーズポップ風に変わっていった。
 宮永英一率いる「ZODLAC」は沖縄ロック関係者によるCDを沖縄で初制作。3人のトリオによる重厚なサウンドはハードロックの神髄を追求した素晴らしいCDとなり、ピースフルをスタートした時のテーマ曲、「フェニックス」を生む。さらに琉球音楽を駆使したアルバム「琉球マジック」を発表する。
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宮永英一の作ったピースフルも変貌を遂げ、若い人気バンドを中心に開催していたが時代の変革と共に彼らも消えて行った。
 時代が大きく変動、ジャンジャンが閉店。後、沖縄市に多目的ライブカフェコザをオープンさせたオユキ(喜屋武幸雄)はロック、ジャズ、クラシック、民謡からアートと幅広くコンサートやライブを開催。自らも15年ぶりにステージに立ち、コンサートや作詞・作曲、ラジオ番組の制作、舞台装置プロデューサーとして沖縄ロック界から音楽全般にと活躍。
 勝ちゃんは沖縄最大のエンターティナーとして、ジョージ紫はロックの職人、又コンポーザーオユキは常に裏方のプロデューサーとして、チビ(宮永英一)はマルチプレイヤーとして一つの時代を創り、沖縄ロック界をリードしてきた。惜しいのはマリーが沖縄ロック界から去ったこと。Aサインから生まれたオキナワンロックが50年の節目を迎える。次世代のロックの華は間違いなく引き継がれ、若いバンドが育っている。ロックンロールrock ‘n’ roll we never dieである。
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