レキオ島唄アッチャー

尚泰久王の墓を訪ねる

 百十踏揚の墓を紹介したので、この近くにある父、尚泰久王の墓について、前の「ココログ・ブログ」でアップしていた文章を再アップする。
 琉球を統一した尚巴志の王統の第6代尚泰久王の陵墓が南城市玉城(タマグスク)富里の南城市役所近くにある。第一尚氏の王統は、7代64年で終わった。
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     写真は尚泰久王のお墓への入り口である。

  このあたりは、車でよく走ったが、由緒ある尚泰久のお墓があるのを知ったのは最近のことだ。尚泰久は、1454年に即位したが、琉球王統の歴史のなかでも、有名な事件が起きた。
 当時はまだ、中城城主に護佐丸(ゴサマル)や勝連城主に阿麻和利(アマワリ)が割拠していた。護佐丸の娘が尚泰久の王妃になり、尚泰久の娘が阿麻和利の妃になるという姻戚関係で結ばれていた。
 阿麻和利が、護佐丸は王府への反逆を企んでいると告げ、王の命を受けて阿麻和利は護佐丸を討った。その阿麻和利はまた、王府への謀反を起こそうとしていると、妃が勝連城から逃れて国王に告げ、国王軍が阿麻和利を討った。
 護佐丸・阿麻和利の乱と呼ばれる。国王にも並ぶような勢力をもった2人の按司は、これで一挙に消えうせた。

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 また、尚泰久は伊是名島出身で百姓上がりの金丸を家来とし、国王になると金丸は王の側近となった。尚泰久の死後、7代目の尚徳王になると、金丸はクーデターによって、第一尚氏の王統を倒し、尚円王として即位した。第二尚氏の始まりである。

 というわけで、尚泰久は金丸を重用したことで、不本意にも第一尚氏の王統を滅ぼす要因をみずからつくった。金丸・尚円王は、本来は尚泰久にはとっても恩義があるはずだと思う。でも、尚泰久が死に、その子の代になると王統を倒したのだから、権力争いの世界は、冷徹なものである。
 尚泰久の陵墓は、うるま市石川の伊波按司とともに祀られていたが、安次嶺家が当山に移し管理しているという(「月代の神々」)。
                  尚泰久王の墓
              お墓の左側が尚泰久、右側が長男、安次富加那志之墓である。
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 この陵墓は、大きな岩山の洞窟を利用した墓である。昔のお墓は、こういう岩山を利用したものが多い。


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コメント


これらの墓は道路工事に伴い造りかえられたものですね。
改修前に行きましたが、墓の中身は空っぽの墓です。
墓の近くに尚泰久と金橋の位牌があり、
子孫の安次富さんに連れて行ってもらいました。
近くに尚布里の墓もありますね。

2014-03-26 Wed 21:24 | URL | ピースオレンジ [ 編集 ]
ピースオレンジさん。コメントありがとうございました。
改修前の墓を見られているとはすごいですね。でも、墓の中は空っぽなんですか。
布里の墓も近くにあることは聞いていましたが、まだ見ていないので、次の機会に見てみたいと思っています。
2014-03-26 Wed 23:34 | URL | レキオアキアキ [ 編集 ]

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