レキオ島唄アッチャー

久高島、カツオ漁時代

鰹(カツオ)漁業時代
久高島の男たちによる鰹漁業は大正の初め頃、与那国島で始められたという。
(鰹漁業の以外に)イラブ―漁、追い込み漁、引き網漁、延縄漁、潜り(海人草、サンゴとり)、突き船(カジキとり)などを八重山方面、奄美方面、それに台湾方面で営んでいた。
 
八重山や奄美方面に出かけているたいていの人は旧の8、9月頃には島に帰っていた。そうして旧3月の南風の吹くまで久高島に滞在し、その間は久高島近海で追込み漁をする。その網元がイビンミー家で、ザバニを4艘所有し、獲った魚は知念・玉城・与那原・中城辺まで売り歩いた。またエビなど高級魚は那覇市場で売っていた。
 今次大戦では、台湾、南洋方面の久高島の漁業従事者たちは戦争にまきこまれ、生き残った人々もすべてを失って命からがら島に引き揚げて来た。久高島もアメリカ軍が上陸し、家のほとんどは焼き払われ、数百年にわたって久高の男たちが蓄積したすべてが失われてしまった。
 久高の男たちは、沖永良部島、徳之島、奄美大島、喜界島、トカラ列島、屋久島、種子島、鹿児島、八重山群島、宮古群島、外国では中国(厦門・上海・北京等)、台湾、南洋(パラオ・テニヤン)に出て、数百年にわたり常に海人として進取の気鋭を持って活躍して来た。奄美方面では今でも沖縄の漁師をクダカーといっている。

< 沖縄戦に関連して思い出したことがある。久高島は小さな島なのに、住民は沖縄本島の金武町に移住させられていたという。金武町屋嘉には、「久高島住民強制疎開之記念碑」がある。 
  次の琉歌が刻まれている。
  「戦世の故に 生まり島はなり 屋嘉村の情き 忘してならん」
  戦争のために生まれ島の久高島を離れさせられた でも屋嘉村で受けた情けは決して忘れてはならない、という意味だろう。「並里仙人詠む」と記されている。>

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  旅妻を持つ男も
 半年以上も漁に出る久高の男たちは、島の本妻以外に旅妻(注・現地妻)をさがす者も多かったといわれ、旅妻との間にできた子孫は各地に多くいるといわれている。また本妻に男子がいない場合、旅妻との間にできた男子を島に連れて来て嫡子として育てた例も多い。
 「いりきハチャグゥミや、うないぐゎがみやぎ、ゆるぬるばらし、うとぅぎみそり、みそり」(ハチャグミというお菓子は私が作ったもの、貴男へのおみやげは私を抱くことです、ほどの意と解されている)
2首(1首は略)の歌は徳之島の旅妻が久高の男に歌ったと伝えられているものである。

 久高島で夫の留守の間、帰りを待つ妻の心境を歌った歌もあるという。
 「久高島に『旅する間は皆の夫だけど、クサバーを釣れば私の夫だよ』という歌がある。出漁中は旅妻があってもかまわないけれど、現役をしりぞき、久高島の浜でクサバー(浅瀬の魚)を釣るようになったら私一人の夫である、というのである。この歌は半年以上も出漁する男たちの立場を考え、じっと島でその帰りを待つ久高島の女たちの悟りともあきらめともつかない心境を歌ったものである。これはまた神に仕え守護者という高い次元にある久高島の女性だからこそ悟れる心境であるといえるのではないだろうか。なお久高島の女性は夫と旅妻との間にできた子供を我が子同様に育てたケースは枚挙にいとまのないほどである..。以上は比嘉康雄著『神々の原郷-久高島(上、下)』からの紹介である。
   終わり
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