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百十踏揚の墓を訪ねる

 百十踏揚の墓
 琉球王府の時代、数奇な生涯をおくった王女、百十踏揚(モモトフミアガル)の墓が南城市玉城冨里にある。近くに行ったついでに訪れた。
 南城市役所の東側にある陸上競技場の山手側にある。案内表示もあるのでわかりやすい。
説明坂には次のように記されている。
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「尚泰久の長女で勝連按司阿麻和利の妃であったが、阿麻和利が倒された後、鬼大城(ウニウフグスク)といわれた越来城主の大城賢雄に嫁いだ。大城賢雄が尚円王に敗れた後は、弟の三津葉多武喜と玉城字當山の大川グスクで共に暮らしたといわれている。
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 百十踏揚の墓は、西ヒチ森の大岩に安置されていたが、1962年頃に中学校校舎建設のために陸上競技場東側にある仲栄眞腹門中墓の側に三津葉多武喜とともに安置されている」
 百十踏揚は、第一尚氏王統の第6代、尚泰久王の娘。勝連城主の阿麻和利に嫁いだ。当時の琉球では、まだ有力な按司(豪族)が各地に割拠していた。尚泰久の王妃の父、中城按司・護佐丸と勝連按司・阿麻和利が大きな勢力を有していた。
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 1458年、阿麻和利が護佐丸は謀反を企んでいると王府に讒言し、阿麻和利と王府軍に攻められて護佐丸は自刃する。その阿麻和利が王府を攻めようとしていると、妃の百十踏揚とその従臣、鬼大城が勝連を逃れて、首里王府に告げたため、阿麻和利は鬼大城を総大将とする王府軍に討たれた。夫が亡くなった百十踏揚は、越来按司(鬼大城)と結婚した。しかし、尚泰久の死後、第7代、尚徳が王位を継ぐと、尚泰久の側近だった金丸が1470年、クーデターを起こして王位に就いた。その際、鬼大城は攻め滅ぼされた。鬼大城が亡くなったあとは、弟とともに玉城で暮らしたという。
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 琉球は、3つの小国に分かれていたのを、尚巴志(ショウハシ)が統一したが、第一尚氏の王統はまだ安定していなくて、金丸により第二尚氏の王統に替わる。そんな変動期に、時代にほんろうされたのが、王妃百十踏揚だったといえるだろう。
 石段を登っていくと、墓がある。大きな岩山を利用した墓だ。手前のお墓は、説明はないが、仲栄眞腹門中墓のようだ。右側にある少し小さい墓に「尚泰久王 次男三津葉多武喜、長女百十踏揚按司加那志」の石碑がある。もともとは玉城中学校の場所にあったのをこちらに移した。中学校敷地には、「百十踏揚墓跡地」の碑が建っているという。今回は見過ごした。
 仲村顕氏が「琉球新報」に連載中の「眠れる先人たち、墓所にたずねる琉球・沖縄史」(2014年2月28日付け)によれば、王府の史書類には「三津葉多武喜」なる人物を見出すことはできないそうだ。ただ、王府の史書に名前がないから実在しないとはならない。登場しないのは何らかの理由があるからだろう。
 それにしても、この墓のある玉城富里は、第一尚氏にゆかりのある土地だ。このお墓の少し南に行くと、踏揚の父、尚泰久の墓がある。尚泰久の墓のすぐ東側には、「第一尚氏世禮腹門中墓」と記された立派なお墓もある。第一尚氏の王統でどういう関係にある人物の門中(男系の血縁組織)かはわからない。
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