レキオ島唄アッチャー

伊江島にあるヤマト系歌謡、その3

  両伊江御殿及び伊江殿内 両家の口伝(方針)
  新城晃編著『伊江島のヤマト系歌謡』からの紹介の続きである。
  川平朝申氏(川平殿内の末裔、琉球放送局長など務めた)の書かれた論文に「伊江島の民謡と舞踊―琉球芸能史に貴重な資料―」と言うのがある。それによれば
  ①同島(伊江島)按司地頭伊江按司及惣地頭伊江親方が江戸、薩摩への出使の際決まって随員には伊江島から有為の青年を選んで随行させ、1,2年間滞留させ江戸の文物を見聞せしめ特に芸能等をも習得せしめて帰り、これを島の若い人達に伝授させ島の芸能として伝承した。特に民謡や舞踊は首里中央の影響受けさせず、そのままの形で数百年間伝承され今日に至った。これは歴代地頭職の方針として島民の自主性を特に重んじたという点に深い原因があったと、口伝されている。
  ②大和風の歌や踊りの多いのは、伊江島の両地頭、本家の伊江王子、分家の伊江親方(川平親方)が薩摩や江戸上りの時に伊江島の有為な青年たちを随伴し、1,2年間滞留させて大和(日本)の文物を見聞させ、芸能を学ばせて帰国するのが習わしになっていた!とわが家では言い伝えている
  ③特に印象深かったのは旧藩時代の伊江御殿と伊江島との関係であった。
  旧藩時代はややもすると領主と領民の間は疎遠になり、納税やもろもろの事でトラブルの多かった他間切とは違い、伊江御殿だけは極めて島人に対して慈悲深く、また島人も伊江御殿にたいしては敬慕の念厚く、伊江御殿の当主が薩摩や大和に上国する際は必ず島の有為の若者供に加え、薩摩を始め京都や江戸の文明開化の状況を見聞させ、島の発展に寄与させたとのことである。
                 伊江島村踊3
                伊江島の村踊(伊江村HP)から            
  両総地頭家と伜者・奉公人
  伊江御殿と伊江殿内の両総地頭家には、「伜者(カシムン)」とよばれる地頭が領内から徴用した雑役夫がいた。
  寛政12年(1800)の手札人数改帳にある伊江島の伜者は、35人(東江村17、西江村14、川平村4)の定数である。伜者は普通3ケ月交代で「奉公人」は期限のないもので小型留学生の変則的なものというべきだろう。昼は伜者と同じく雑役の使用人になり夜間独学をしたものと解せられる。それで首里奉公人は伜者プラス奉公人で、常時40人以上居たことが推測される。古い記録では両家に各々47人の奉公人を送ったとある。
  伜者と奉公人との区別はよくわからないが思うに伜者は雑役につき、奉公人は初めから番所要人として選ばれたようである。一度文子に採用されると年功序列で夫地頭までは昇進したという。

  奉公人の中でも守役は学問のある優秀な若者が選ばれ、満期になって帰島すると番所の文子(てぃきぐ)になり、出世して地頭代まで昇ることが約束されていた。子守役の豊本にや、仲村にや、足知念にや、文子に昇任された者に東江文子などがいた。
 
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