レキオ島唄アッチャー

伊江島にあるヤマト系歌謡、その2

 伊江殿内の設立
  伊江按司の4世目朝敷の4男・朝叙(向和声)は、累進して1720年三司官(行政の実質トップ)に上り総地頭に任命される親方(ウェーカタ、士族の最高の称号)になり総地頭になる資格をもつ。初め久米島具志川間切の総地頭に任命され、1729年(享保14)伊江島初代の総地頭に転じられた。その家を「伊江殿内(ドゥンチ)」と称したが、のち1835年その姓を川平に改めたので、その家を「川平殿内」と称するようになった。
  朝叙―朝?(向乗均)―朝睦―朝安―朝範―朝重
  1879年廃藩置県で廃職となる。1729年以来、150年間続いた伊江御殿との二重支配(注・伊江御殿と伊江殿内)がなくなった。 
 ※伊江殿内が川平姓を名乗ったのは、尚鍵王子が伊江御殿の嗣子となり伊江姓を名乗ったので、同姓を憚(ハバカ)って川平姓に改めたという。
 なお、両総地頭とも遙任であったので、首里務めであり伊江島でも現地務めはない。
総地頭に任命されてから、両総地頭家から1674年から1876年までに、伊江御殿から9回、伊江殿内から4回も旅役に命じられている。
                    2伊江島村踊
                         伊江島の村踊(伊江村HP)から
 注・伊江御殿と伊江殿内は、一字違いなのでとても紛らわしい。だが、似ているようで大きな違いがある。伊江朝義は尚清王の第7子なので、王子となり、国王直系で本家にあたり「御殿」となる。しかし、4世朝敷の4男、朝叙は王子を継げないで、分家となる。親方になり、その家は「殿内」となった。伊江殿内の始まりであり、のちに川平姓を称したということ。伊江御殿にしても伊江殿内にしても、総地頭であっても伊江島の現地に赴任したのではない。首里に居住したままの遙任であった。

 ヤマト旅に随行した島の若者
 
  これまでは、伊江島の統治をめぐる歴史の素描である。首里王府からしばしば「旅役」を命じられた。船で那覇から薩摩や江戸に用務で出かけるのを「旅役」と呼ばれた。昔の船旅は、危険をともなうが、旅役をこなすことは、とても重要な任務だった。旅役に際しては、伊江島に負担がしわ寄せされた。同時に、島の若者が随行したという。
                 伊江島忠臣蔵
                   伊江島の村踊、「忠臣蔵」(伊江村HP)から
 「総地頭家の旅役には相当莫大な費用がかかっているが、それは島の負担に大きくのしかかっているとみたからである。それと同時に主家の温情で島の若者が旅役に仰せつかっているが、これは島の開発にも影響したと推測できるし、その人々の旅支度に島の公費負担も見のがせないものがある(『伊江村史』)」

  伊江御殿(ウドゥン)や伊江殿内(ドゥンチ)の両家の大和・薩摩行きの際に、伊江島の若者が随行したことが、島に幾多の影響をもたらすことになった。
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