レキオ島唄アッチャー

移住地の村褒めの歌、「桴海布晒節」

「桴海布晒節」
 桴海(フカイ、石垣島)村は、最初は山原と荒川との間にある俗称「フカイ」と称する平野に創建されたが、元和5年(1619)に大田兼久(地名。兼久は海岸地域を言う)という海岸地帯に移転したが、寛永2年(1625)に突如襲った津波で全村流潰に逢い、後難を恐れて、寛永10年癸酉(1633)「大原」という高台に再移転して今日の桴海村となったのである。
 桴海は川平村の管轄内にあった桴海の役人の陳情により、元文3年(1738)竹富島から150人を移民し、桴海の現人口も合せて284人を以って独立村を嘆願したが、13年後、寛延3年(1750)になっても御認可がなかったので平得村から100人が移住し、ここで宝暦3年(1753)認可が許され与人、目差の役人を配置して、独立村となったのである。安政4年(1857)翁長親方が御検使の結果、その疲弊衰退に驚かれ且つ同情して黒島から50人を補充移民し、漸く村治に当たらしめたのである。
 この曲の歌詞は次の通り。長いので抜粋し、カタカナはひらがなに直した。
1、桴海てぃる島や 川平内どぅやだんぬ
2、癸酉(ミンヌトヌトウリ)ぬ年に 桴海原建てぃてぃて
3、天加那志 御恩義(ミブキン) うやき世ば 給ぼられ
4、天加那志 御用ぬ 二十舛(ハタユミ)ぬ 御布
8、吉(ユカ)る日ゆ 選らでぃ 上ぎてぃ しでぃら
 歌意は次の通り。
1、桴海という島(注・ムラ)は 川平の管轄であったが
2、寛延10年癸酉年に 桴海村を創建した
3、琉球国王の御恵みによって 豊年の世を給わり
4、王様への御貢用の 極最上の御用布は
8、吉き日を撰んで 納付して感謝します
 この項は、喜舎場永珣著『八重山民謡誌』から引用した。  
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                   写真は石垣島桴海より少し北に行った野底の海岸
  村褒めの歌にはパターンがある
  これまで見たきたように、八重山古典民謡の村褒めの歌の歌詞は、いくつかのパターンがある。山や岡を背にし、前に田畑が広がり、稲粟が実り豊作だ、果報の村だ。年貢も納めて、残りの稲粟でお酒も造ろう。そんな歌詞が多い。村人の心持ちや娘の容姿の美しさ、心の美しさを褒めることもある。
  住民が住み慣れた土地に愛着を持ち、誇りを持つのはとってもよいことだ。ただ、実際の村の実情は「村褒め」の歌のようには豊作続きで、うまくいくとは限らない。八重山の歴史を見ると、天候不順、干ばつや台風などで、不作、凶作にしばしば見舞われた。人頭税を納めるのに、どれほど喘ぎ苦しんできたことか。
 「村褒め」の歌で、豊作をいただいた、平和で豊かな弥勒世(ミルクユ)をいただいた、と繰り返し歌われるのを見ると、「豊作でよかった、よかった」というよりも、豊作に恵まれ、年貢も完納し、豊かな世が訪れることが、村人にとっていかに切なる願望であったのか、ということを強く感じる。そういう意味では、「豊作を給わった」と歌うのは、過去形ではなく、豊作を招く予祝の歌謡といえるのだろう。
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