レキオ島唄アッチャー

移住地の村褒めの歌、白保節、真謝節

  「白保節」「真謝節」(マジャブシ)
  石垣島の中心部から東に回り、大浜、宮良を過ぎた先に白保がある。この白保にかかわる村褒めの民謡に「白保節」「真謝節」がある。白保村が分村して、白保村と真謝村にわかれていた時代があり、2つの民謡がある。
  少しややこしいが、曲を理解するために、村の由来を紹介する。
正徳3年(1713)当時宮良村の管轄下にあったが、波照間島から300人を移住せしめ独立村となり、与人(ユンチュ)、目差(メサシ)の役人が置かれた。
  白保村は人口1472人に繁昌して、当時の役人だけでは村治上支障が少なくなかったので時の在番、頭は白保村から686人を分村して真謝村を創立する陳情をしたところ寛永3年(1750)認可指令があった。道路を境界線にして北部は真謝村、南部は白保村とした(参遣状)。
  明和8年(1771)の大津波の当時は、両村合わして1574人の人口だったが、そのうち1546人がその天災のために溺死してわずか28人だけがかろうじて生き残った。村落も全部崩壊し、珊瑚礁の石原と化してしまった。
八重山の行政庁である蔵元は、その後、波照間島から418人を強制移住させた。生存者とあわせて446人の人達は、津波の恐怖の念から旧敷地から北方約12町(1.3㌖)位もはなれた「上野地(ウイノヂ)」という高地へ村を移した。白保村の再建で真謝村は廃村になった。後に上野地から現在の白保の位置に移った

 「白保節」
♪白保村上なか 弥勒世(ミルクユ)ば給(タボ)られ 
  ユラティクユラティク ブドゥリアスバ(以下ハヤシ略)
♪稲粟ぬなをりや 常(チゥニ)ゆいん まきらし
♪首里加那志 貢(ミムヌ)御残いぬ稲粟や
♪泡盛ん生らしょり うんしゃぐ(御神酒)ん造りようり
♪真謝ぬ主ばつぃかいし 目差主ばつぃかいし
                   433.jpg
                      白保の海岸    
  歌意は次の通り。
♪白保村に 豊年を賜りました
♪稲粟の稔り具合は 例年にも増して豊作でした
♪首里王様への年貢を納めて その余剰の稲粟で
♪泡盛も仕込み 御神酒も醸造しました
♪真謝与人様(村長)をご案内し 目差役人様(助役)のお供をして
  歌はこの後、「与人様を先頭に 目差様を次の席にして 上の村に行って祝い 下の村に移って祝います」という意味の歌詞が続く。

  「真謝節」
 石垣市白保の集落内に真謝井戸(マジャンガー)がある。石の階段のある古い井戸である。歌は白保の村を褒めるとともに、この真謝井戸のことを歌っている。「シンダスリ節」とも呼ばれている。「シンダスリ」とは「可愛い乙女を見て気がよみがえる」というような意味だとのこと。お囃子の言葉が題名にされている。白保では「白保節」「ボスポウ節」とともに三大名曲とされている。
 真謝井戸は琉球王命により、視察のため派遣された馬術の名人馬真謝という人が、村人と共に採掘して長く村民の生活に役立てた由緒ある井戸である。       
                  
  この曲の歌詞は次の通り。
♪白保てぃる島や 果報ぬ島やりば 真謝井ばくてぃうやき前なし
   シュンドスリサスリヱ(以下ハヤシ略)
♪与那岡に登てぃ 押し下し見りば 稲粟ぬなをり弥勒世果報
♪稲粟ぬ色や二十才頃 女童粒美らさあてぃどぅ 御初あぎら
♪真謝井に下りてぃ 水くむる女からじ 黒々とう目眉美らさ
♪真謝井ぬ水や すみば底や見らりどうす 此の程ぬ女童底や見らぬ
 歌意は次の通り。
♪白保という村は 恵みに満ちた村で 真謝井戸を背に 裕福な村を 前にしている
♪与那の岡に登って 周りを見渡すと 稲粟の稔りは 見事に豊作である
♪稲粟の穂の色合いは 二十歳頃の娘の肌艶のように 粒が立派に稔ったので
 初穂を神仏に捧げます
♪真謝井戸に降りて 水を汲む女性の 髪が黒々と輝き 目鼻立ちの
  美しいことよ 
♪真謝井戸の水は 澄んでいると底を見ることが出来る  
  これほど美しい娘の心のうちは推し量ることが出来ない

 「白保節」は冒頭で、白保村における豊作を歌っていながら、後段の豊年を祝う場面では白保村ではなく、真謝村の役人が招待される筋立てになっている。これはなぜなのか。當山善堂著『精選八重山古典民謡集二』は次のように解説している。
 そもそも白保村は、古くは「前ぬ村」「白保村」「真謝村」「兼久村」の4つの集落から成り、その後のある時期に「白保村」と「真謝村」の二つの集落で構成され、与人・目差が配置される行政上の「白保村」が成立したのは1713年であったという。行政上の村である「白保村」が成立した当時の役人は「白保与人・白保目差」と称されていたようである。ところが、後に行政上の「真謝村」は認可されなかったにもかかわらず、真謝集落に村番所が置かれていたからなのか、その理由は定かではないが役人の呼称が「白保主」から「真謝ぬ主」に改称されたというのである。この歌は、まさしくその時期に作られたものであろう。
 八重山では、村の役人の役職名を行政村の名を冠して呼ぶのが一般的であるが、例外的に竹富村では「玻座真」、桃里村では「桃原」、平久保では「花城」というふうに行政区としての村の名と役人の呼び名とが一致しない場合もあったようである。
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