レキオ島唄アッチャー

移住地の村褒めの歌、桃里節

 移住地の村褒めの歌

 琉球王府の時代に、八重山で島民を他の島の開拓のため強制移住させる「島分け」「村分け」の悲劇を歌った曲を紹介した。その続きである。
  住んでいる島から、他の島への移住は、新たに開拓して村を創建することもあれば、人口減少の村に補充として移住して、村を再建、再興する場合もあった。いずれも王府の施策として行われた。移住した村を歌った曲は、「島分け」の哀歌だけではない。むしろ創立された村を、褒め称える曲が多いのも特徴の一つである。その中からいくつか紹介する。
  資料として、喜舎場永珣著『八重山歴史』、同『八重山民謡誌』、牧野清著『新八重山歴史』、當山善堂著『精選八重山古典民謡集』、『南島歌謡大成 八重山編』などを参考にした。

  「桃里節(トーザトゥブシ)」
 石垣島東海岸沿いに、白保を過ぎて北に行き、小高い山の柄岳に隣接して桃里村があった。移住によって創建され、183年の歴史をへて廃村になった村だ。
  この曲の歌詞は次の通り。
♪桃里てぃる島や果報ぬ島りば 柄岳(カラダキ)ば前なしうやき繁昌
 ヤゥサティヤゥヒーヤゥンナ 以下ハヤシ略
♪柄岳に登てぃ押し下し見りば 稲粟ぬなをり弥勒世果報(ミルクユガフ)
♪赤ゆらぬ花や二、三月どぅ咲ちゅる 我がけーらぬ花やいつぃん咲ちゅさ
♪花ぬ色美(イルヂュ)らさ桜花でむぬ 女童ぬ美らさ我島でむぬ
 歌意は次の通り。
♪桃里という村は恵み豊かな村で 柄岳を前方にして裕福で繁昌している
♪柄岳に登って周りを見下ろすと 稲や粟の稔りは見事で豊作だ
♪デイゴの花は二月から三月の頃に咲く 私たちみんなの心の花はいつ咲くのだろう
♪花の美しいのは桜の花が一番だよ 娘の美しいのは私たちの村が一番だよ
            
 この場所は、土地が肥沃であったため、石垣、登野城、平得、宮良、白保などの百姓たちが競って開拓し、往還して農業を営んでいた。在番、頭たちは新村創建の計画を立て、5ケ村を中心に他の村からも、移民を命じ、役人も任命して桃里村を創建した。
  しかし、明和の大津波で、当時880人いた人口は283人が溺死した。生存者605人で村を維持していたが、過酷な人頭税とマラリア、流行病のため衰えた。
  廃藩置県後は人口補充策が廃止され、さらに居住が自由になると生活しやすい地方へ住民が移動し、大正3年(1914)に183年の歴史で廃村になった。(『八重山歴史』)
  悲惨な歴史をたどった桃里村だが、一時的にでも繁栄した時期があり、「桃里節」はその時に歌われた歌。
  廃村から39年後の昭和28年(1953)に琉球政府が沖縄本島の大宜味村から135名の開拓移民を募り、大里村と改名して桃里村は復活している。(ネット「石垣島探検誌」から)
 
  八重山民謡は、自分たちが暮らす村を「果報の村」と褒め上げる曲が多い。村褒めは、民謡の一つのジャンルになっている。この曲も、その一つ。ただ、移住による新村創建には、さまざまな労苦があったはずだ。それに大津波による犠牲があり、最終的には廃村になったのだから、移住の悲哀が歌詞にあってもよさそうだが、短い歌詞を見る限りは見当たらない。なぜだろうか。

  素人的な見方をのべる。村建てした桃里村が「水も豊富で土地も肥え、豊作に最適の地である」こと。
  5村の百姓たちが「この地に行って豊作し、生産を挙げていた」こと。
  4里(16㌖)余りの遠距離のため「往還に甚だしく労力を費していた」こと(「球陽」、牧野清著『新八重山歴史』)。
 それに加えて、移住地と故郷は離れていても歩いても行くことも可能な土地であり、離島からの移住のように、生まれ育った島を永遠に離れ、海を越えて移り住む。しかも未開の地を開拓するのとは、大きな違いがある。これは移住を容易にする事情となっただろう。
  しかも、移住に際して特典があった。「蔵元では、住家の建築、村屋敷の伐採、田畑の開拓や猪垣の築造から、井戸の掘方等に対して、全島民に命じて、労力を提供させ、移民事業を完了し、直ちに与人目差等の役人を任命して、桃里村を創建したのである」という(『八重山歴史』)。
  これは前に「寄人制度」で書いたことだが、「寄人(移民)に対する特典」として通常、住家の建築や免税、農具の貸与などはあるが、それ以外に桃里村のような援助を全島民の動員によって行うことまではない。通常の特典以上に援助があったことになる。
  これらを考えると、桃里村の場合、移住を希望する者がいたり、希望までしなくても移住命令に順応できたのかもしれない。大津波に襲われるまでは、人頭税の重圧下でも「桃里節」に歌われるような状況があったのだろうか。
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