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沖永良部島の歴史スケッチ、薩摩の支配下で

 薩摩の支配下で
 1609年に薩摩藩が琉球に侵略すると、薩摩は奄美諸島を琉球から切り離して、直轄支配とした。島津氏は、奄美大島と徳之島に奉行(代官所)を置いた。沖永良部島は当初、徳之島代官の支配をうけたが、1690年に分離され、沖永良部島にも代官が設置された。
 代官所には、代官(藩主の代理人)・横目(犯罪取り締まり)・附役(ツケヤク、年貢取り立てなど)などを置いて、鹿児島から直接武士が派遣された。武士はすべて単身赴任であり、世話をする島の女性が使われた。役人と親しくなった女性は「島妻」といわれ、子どもが生まれると武士の子孫として養育され、今の役人に任命される者が多かった。
 藩役人の下には多数の島民が島役人に任命された。「与人(ヨヒト)」は島役人の最高職、島内にあった3つの各間切(マギリ、いまの町村)に置かれた。「目差(メザシ)」は与人の補佐役、「唐通事(トウツウジ)」は中国人との通訳、「筆子(テッコ)」は書記の仕事をした。 
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  かつて仮屋(代官の役所)があった場所にいま西郷南洲記念館がある

 薩摩は、奄美にたいして、①島人にふさわしい名前をつけるべき。何十郎・何兵衛などの名前は付け替えること②鹿児島のように月代(サカヤキ、髪を剃る)してはならない③鹿児島に来ている島人は、役人に出会うときは平伏し無礼にならないようにすること、などといった制限を加えていた。
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                     波が打ち寄せる和泊の海岸
 年貢米に代わり黒糖上納へ
 増え続ける借金をかかえた島津氏は、南島のさとうきびに注目する。奄美大島では、17世紀からさとうきびが植え付けられ、黒砂糖が生産されていた。1745年この黒砂糖を年貢米に代わりに上納させるようにしたのが砂糖政策の始まりであった。
 財政難に苦しむ薩摩藩は、1830年、さとうきびを強制的に田地にまで植え付けさせて、すべての黒砂糖を藩に取り上げるため、農民から厳しく取り立てた。この制度は、大島・喜界島・徳之島の三島に適用され、沖永良部島と与論島では年貢米の制度が続けられていた。   
 「沖永良部島の砂糖まで全部藩が取り上げてしまうと、船頭や商人達が買い入れるものがなくなり、彼等がもうけられなくなってしまう。だから、沖永良部島の砂糖は一般の商人が買い取ってもよい」とされていた。

  島津斉彬が藩主に就くと、幕末の動乱をおさめ、外国との紛争に備えるため、数多くの事業を行われた。1853年、これらの費用に役立てるため、沖永良部島の砂糖もすべて買い上げられることになった。
 斉彬の死後、西郷隆盛・大久保利通などがすすめた倒幕運動の財源は、南島の黒砂糖であった。明治維新の成功をささえたのは、南島の厳しい監視の中で強制的に生産させられた黒砂糖であったといってもよいだろう。
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