レキオ島唄アッチャー

沖永良部島は「花の島」

お土産は華麗な菊
 居酒屋「うたしゃ」でライブのことを紹介した。この時の続き余談である。
ライブが終わると、オーナーがお土産だといって、花の束をみんなにプレゼントしてくれた。菊の花が10本くらいはいっている。「間違っても売らないでくださいね」と冗談まじりに話していた。沖永良部島は「花の島」だという。テッポウユリは有名だが、それだけでなく、フリージア、菊、グラジオラスなど花卉栽培が盛んだという。
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 菊は、帰りの船に持ち込むと「花は船室に持ち込まずに、この通路脇において下さい」と船員が言う。「なぜ?」と尋ねると、「香りがあるので船室には入れないようにしている」とのことだった。
 自宅に帰って、花びらにかかっていたネットをはずすと、とても大きな花びらで華麗な菊だ。花屋で買うと相当の値段になるだろう。「売らないで」の意味がよくわかり、改めて感謝の念を強くした。

 テッポウユリの由来は
 ところで、沖永良部島でテッポウユリがなぜ有名になったのだろうか。元来は自生種(野百合)だったが、1899年(明治32年)にイギリス人貿易商人バンティングにより見出され、ユリ球根栽培が開始された。1902年にエラブリリーとして欧米に輸出を開始した。
 当時は貴重な外貨獲得の手段となり、1911年(明治44年)当時、植物輸出総額の7割がテッポウユリであり、鹿児島県産はその中でも重要な位置を占めていた。
 戦後、栽培技術の発展や流通ルートの確保などを通じて、切り花栽培が成長してきた。現在は切り花が主流となり、球根とともに島の主要な農作物となっている。クリスマス等の必需品として多くの国で愛されているという。以上は、九州農政局のHPから紹介した。
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       大石公園のテッポウユリ


 ユリといえば「沖永良部島の百合騒動」が有名だ。民謡の「永良部百合ぬ花」でも「♪永良部百合ぬ花 アメリカに咲かちヤリクヌ うりが黄金花 島によ咲かさ」「♪いかに横浜ぬ 波荒さあてぃんヤリクヌ 百合や捨てぃるなよ 島のよ宝」と歌われている。「永良部のユリをアメリカに咲かせよう ユリは黄金の花だ 島におおいに咲かせよう」「どんなに横浜の商社と争いがあっても ユリは捨てるなよ島の宝だよ」という歌意である。
 昭和5、6年には全国のユリ出荷量の3分の1以上は沖永良部産で占めた。値段が高騰したため商社は価格を統制、検査を厳しくし、農家の球根代の踏み倒しなども起きた。島では永良部百合組合を設立した。自主的な検査、適正価格の維持と代金の予納(前金)をさせるなど目的とした。譲らない商社に対して、自主的にオランダ商人と契約したため商社は降伏した。商社側も日本百合輸出組合を組織し、取引数量、価格、輸出時期など完全に統制されることになった。
 これは生産農家にショックを与え、3300人が結束していた同業組合は、2つのグル―プに分かれて対立することになった。この騒ぎの中に三菱商事が乗り込み、対立する一方についたため、争いは大きくなり、お互いの告訴、夫婦の離婚、井戸水争いに発展、農民の心に傷を残すことになったという。
以上は、先田光演氏著『沖永良部島の歴史』をもとに紹介した。
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 テッポウユリは、4月後半から5月初めにかけてがシーズンだ。きっと、「花の島」沖永良部は、テッポウユリの甘い香りに包まれるのだろう。
 そういえば、那覇市の大石公園でも、テッポウユリがたくさん植えられ、ユリ祭りが開かれる。この公園のユリは、沖永良部島和泊の人々から贈られたユリだという。身近なところで、そんな島との交流もある。

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