レキオ島唄アッチャー

沖永良部島で慕われる西郷隆盛

 流罪人として和泊で囚われていた西郷隆盛
 ドライブに出かける前に、和泊でどうしても見ておきたい史跡があった。ホテルにも近いので行ってみた。薩摩藩の倒幕運動の英傑、西郷隆盛が入れられていた牢屋である。
 西郷は、国父・島津久光の怒りにふれ、徳之島とさらに沖永良部島に遠島(島流し)にされたことがある。久光の命令書には「囲いを作って、昼夜とも見張り番をつけて監視せよ」とされ、1862年から1年6か月にわたり罪人として扱われた。
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 かつて仮屋(代官の役所)があった海辺近くの場所に、いま資料館があり、そばに牢屋がある。頑丈な4寸角材の格子で囲われ、わずか2坪余りしかない狭い建物だ。西郷は一日中、座禅を組み思索にふけっていたという。
牢屋の中に、座禅を組む西郷の像がある。目を閉じた容姿は、東京・上野公園のお馴染みの西郷像とはまるっきり別人のような、なんか学者のような印象だ。
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 西郷の姿に心打たれた間切(マギリ、いまの町村)横目(役職名)・土持正照が自分の家の中に囲いを作り、そこに西郷を移した。西郷は体力も回復し、読書に精を出し、周囲の子どもたちに勉強を教えるようになった。教えを受けた子どもたちは成人すると島の指導者になっていった。
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 西郷が牢屋生活の間に学問に励み、精神を練磨して悟った思想が「敬天愛人」と呼ばれ、「天を敬い、人民を愛する」という意味である。その後西郷の行動の基準となったという。牢屋の前に建てられた石碑には、この思想が「本島発展の基をなしている」と記している。
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 西郷はまた、貧しく、台風や日照りで飢饉になる島民のため、対策として豊作の年に余分な米を出し合い、貯蔵しておき、飢饉のときに貸し付け、利子を貯えることを教えた。社倉(シャソウ)と呼ばれる方式で、明治3年から実行された。島民全員が加入し助け合う共済制度として、30年間続いた。その利益で公立病院を設立したり、奨学資金や母子家庭などの救済の基金にもなるなど、島民の生活向上に活用されたという。
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 そんなこんなで、西郷さんは沖永良部島ではとても敬愛されている。近くには西郷神社まである。
以上は、先田光演著『沖永良部島の歴史』や「西郷南洲翁謫居の地」の説明文を参考にした。
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