レキオ島唄アッチャー

「島分け」を歌った八重山哀歌、「崎山節」

 「小節かされた『つぃんだら節』」「悲劇を生んだ八重山の移民政策」をブログにアップした。これに続く「島分けを歌った八重山哀歌」をアップする予定だったが、手違いで先に「移住地の村褒めの歌」をアップしていた。遅れたけれど、「島分けを歌った八重山哀歌」を何回かに分けてアップする。
 
 「島分け」を歌った八重山哀歌

 薩摩の支配下で搾取されていた琉球は、財政立て直しのため、八重山の未開拓の地や人口が少ない土地に、人口の多い島から住民を強制移住させる政策を進めた。役人が村の道路を境に移住者と残留者を無慈悲に決めた。「島分け」「村分け」と呼ばれる。
 恋人でも、容赦のない線引きで分けられたので、たくさんの悲劇が生まれた。「島分け」をテーマとした曲は、八重山でも宮古島でもたくさん作られた。
 八重山の「島分け」をテーマとした曲を集めてみた。以下、歌詞の紹介は大浜安伴著『八重山古典民謡工工四』を基本とし、それ以外の著書も参考にした。訳文は當山善堂氏編著『精選八重山古典民謡集』『南島歌謡大成 八重山編』などを参考にさせていただいた。島分けと新村創設の由来については、八重山歴史編集委員会編と喜舎場永珣著『八重山歴史』、牧野清著『新八重山歴史』、當山氏の著作をもとに紹介した。


「崎山節」
 波照間島からの島分けの唄に「崎山ユンタ」「崎山節」がある。これは、一七五五年ごろ、西表島の崎山という地に、女二〇〇人、男八〇人(唄では女一〇〇人となっている)が移住させられ、崎山村をつくったという。崎山村は急傾斜地であるうえ、マラリアの有病地だった。
 「崎山ユンタ」と本調子「崎山節」は同じ歌詞で歌う。次の通り。
♪崎山ゆ新村ゆ 立てぃだす シュウラヤウイヌタティダス
♪なゆぬゆいんいきやぬ つぃにやんどぅ立てぃだね 以下ハヤシ省略
♪野浜ふつぃ 兼久地ぬゆやんどう 
♪波照間ぬ 下八重山ぬ内から 
♪女子百(ミドゥナームム) 男子八十(ビフナーヤス)別(バギ)られ
♪誰るどぅ誰 何(ジ)りどぅ何りで思うだら 
♪我(バ)ぬどぅ 我ぬくりどぅくり別られ
♪たんでぃとーどぅ 美御前(ミョーマイ)とーどぅ主ぬ前
♪許しひやり 胆ちやひり主ぬ前
♪ば(我)ん心 胆心あらぬす
♪天ぬ御意 御主ぬ御声やりばどぅ
♪許すこと 肝ちゃくとうならぬす
♪天ぬ雨 ゆまぬ粒やりばどぅ※
♪笠は取り 蓑ばきしぱんさり
 ※「ゆまぬ粒」の部分は、さまざまな歌詞と意訳がある。「読まぬ粒=数えきれない粒」「上からの雨」「やまない雨」「夜の露」など。『南島歌謡大成 八重山編』では「天ぬ雨 よまの、露やりばと=天の雨 夜の露であれば」とされている。この歌詞がわかりやすい。

 歌意は次の通り。
♪崎山を 新村を建てたのは
♪何の故に どんな理由で建てたのか
♪野浜口(津口)の故に 兼久地(砂地)の故に
♪波照間島の 下八重山(波照間の別称)の内から
♪女100人 男80人分けられた
♪誰が誰が どれがどれがと思っていたら
♪私が私が これがこれがと分けられた
♪どうかお願いいたします 国王様 お役人様お願いいたします
♪お許しください 思いをかけてください
♪私の意思ではない 私の気持ちではないぞ
♪恐れ多くも天のご意志 国王様の御声である
♪許すことはできない 思いをかけることはできない
♪天の雨 夜の露であれば
♪笠をさし 蓑を着て防ぐ 
♪泣く泣く いやいやながら 移住させられてしまった

                
 移住者の一人の老婆が、移住と開拓の辛さを歌ったのが「崎山ユンタ」だという。この唄を聞いた役人が、同情して老婆一人を故郷に帰したとも伝えられる。このユンタを節歌にしたのが「崎山節」だという。
 大浜安伴氏編集の『八重山古典民謡工工四』による「崎山節」は「本調子」と「二揚」があり、歌詞が違う。本調子は「崎山ユンタ」と同じ内容だ。本調子は物語の前半にあたり、「二揚」は後半となる。移住させられた後、故郷をしのぶ歌詞である。痛切な叫びの歌が胸に迫る。
♪ゆくい頂(ツィヅィ)遊びはな 登りようり シュラヤウイヌ
 シュラヤウイヌ 登りょうり
♪波照間(パティローマ)ゆ生り島ゆ 見上ぎりば ハヤシ 見上ぎりば
♪我家(バヤー)ぬ母産(アブナ)しやる親ぬ 真面(マムティ)見るそんね
  ハヤシ 真面見るそんね
♪見らでしば目涙(ミナダ)まり 見らるぬ ハヤシ 見らるぬ
♪取らでしば遠さぬけ 取らるぬ ハヤシ 取らるぬ
♪なくなくとゆむとゆむ とう戻りき

 歌意は次の通り。
♪憩いの頂に 遊び端に登って
♪波照間島を 生れ島を眺めると
♪わが家の産んでくれた 母親の顔を見ているような心地がする
♪しっかり見ようとすると 涙があふれ見ることができない
♪手に取ろうとすると 余りにも遠くて届かない
♪泣く泣く嫌々ながらもどってきた 
 この後、歌詞は「住みついて暮らし続けているうちに住んでいる村こそ居心地がよいものだ」と移住と新村を褒め称えるという内容となっている。歌詞の内容が逆転している。不自然である。
  「(三線など)楽器の伴奏を伴ういわゆる節歌は士族の専有で、今日の八重山民謡はほとんどこれら士族の作詞作曲によるものである。ユンタ・ジラバ・アヨウなどの古謡は、いわゆる労働歌で、楽器の伴奏を要せず、これは平民の歌う歌であった。然し士族の節歌において身を飾り、舞を舞ったのは常に平民の子女であった」(牧野清著『新八重山歴史』)
庶民の間で生まれたユンタなどをもとにして、三線の伴奏を伴う節歌に仕立てる過程で、士族・役人流の視点が付け加わり、およそ正反対の内容をもつ曲となったのだろうか。同じ問題は、他の「島分け」の哀歌でもある。
 
西表島の古見、西表両村の間にあった崎山地方に、1755年(宝暦5年)村が創建された。水が豊富で土地も肥沃、人民の居住、農耕に適した土地で、港も広く深かった。在番頭や西表の役人は波照間島から280人、網取村から63人、かぬか村から93人、祖納村から10人、その他の村々から13人、計459人を移民して崎山村を創立する陳情申請をし、1755年に認可指令が下りた。創立後の1761年(宝暦11)には人口が382人に減少し、1873年(明治6)には64人まで減り、終戦の1945年(昭和20)に廃村となった。それでも190年続いたので、一番長く続いた村だという(『八重山歴史』『新八重山歴史』から)。
スポンサーサイト

島唄 | コメント:0 | トラックバック:0 |
<<「三線の日」、辺野古でも三線が響きわたる | ホーム | ディナークルーズを楽しむ>>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

| ホーム |