レキオ島唄アッチャー

八重山開拓、 八〇を超える村が廃村に

  八〇を超える村が廃村になる

 牧野清著『新八重山歴史』から紹介からの続きである。
 かくて明治から大正期にかけてほとんどの新村が廃村の悲運を迎え、わずかに歴史の上にその悲劇的な名を止めるに過ぎない結果となった。今日では廃村の跡は耕されて畑となり、或いは茫々たる荒草の野と化して、人の住んでいた往時の面影を全く止めていない。
                    405.jpg
                  八重山戦争マラリア犠牲者の慰霊碑文

  財政のひっ迫から移住による開拓を強引にすすめる政策が、いかに無謀なものだったのかを物語るのが、新たに建設した村々が、次々に人口が減少して、廃村になっていることだ。戦後、琉球民政府の衛生部長を務めた大浜信賢氏が、「八重山の廃村」を調査研究している。それによると、廃村の数は、石垣島で二三村、西表島で二三村、その他各離島で三四村、合計八〇廃村という多くにのぼるという(『八重山の人頭税』)。
  開拓で創設された新村は、いずれも八重山の風土病ともいうべきマラリアの「巣窟」というべきところだという。マラリアの有病地でない場所は、住民は経験からわかっていて、すでに定着し繁栄しており、人頭税の増収を目的とする開拓は、恐ろしいマラリアの有病地しか残っていなかった。そんな悪条件の場所に新しい村を創設するのは「無辜の良民を有病地の火葬釜に投げ込むのも同然」だったという。

  大浜氏は、こんなに廃村が多い原因として次のように結論づけている。
 なんといっても移住地が①マラリアの有病地であること
 ②新設部落の立地条件について蔵元(地方行政庁)がまったく考慮にいれていないこと
 ③人頭税の苛酷さが住民に部落の繁栄をきずきあげるゆとりをまったく与えていなかったことがあげられる。
 廃村の陰に、どれほど多くの貧しい人々の血と汗と涙が流され、命が奪われたことだろうか。
スポンサーサイト

八重山の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |
<<アルテで「南洋浜千鳥節」を歌う | ホーム | NAHAマラソン、具志堅用高と遭遇>>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

| ホーム |