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琉球王府の八重山開拓史から

 琉球王府の八重山開拓史

 王府の八重山開拓政策について、牧野清著『新八重山歴史』から紹介する。途中を省略しているのは、『八重山歴史』の「寄人制度」とほぼ同じ内容でダブルからである。

  薩摩藩の侵入を受けた1609年以後の琉球王府財政は、急速に窮乏に傾いて行った。それは従来王府財政を支えて来た対中国貿易の利益は、悉く薩摩に吸収されてしまったのみでなく、その後も王府の体面は旧態を維持するということとなった為、勢い王府財政は大きく収支のバランスを失うという結果になったのである。じらい王府の首脳部はその窮乏財政の対策に心血をしぼらざるを得ない立場となった。史上悪税として著名な宮古・八重山の人頭税も、このような背景の下に1637年から施行されたのである。(略)

  蔡温の国相就任後、1730年代から1780年代までおよそ60年間にわたって、以上の様な目的と、移民に対する特典で次々と新村を建て、八重山の開拓事業を強硬に推進した。然しそれは表面的には地元村からの請願の形をとったのであるが、実際は総て王府の政策であり、また命令によるものであった。然し1768年に、上原・仲与銘村が、1785年に盛山村が建てられた例などから見ると、必ずしも蔡温だけがこの政策を推進したのではなく、その後も踏襲されたと見るべきであろう。尚当時移住命令を受けた村は、マラリアのない、人口の繁栄した離島の村が多かったようである。

  当時寄人(移民)を命令するときは、役人は目をつぶって部落の道路を境界線として定め、「この道からこれだけはどこどこへの寄人だ」と宣言するだけでことはすんだと伝えられる。これを「道切り」とよんで人々は非常におそれたという。道切りが定められると、どんなに事情をのべて言訳してもきかれず、王命として絶対服従を強いられた。その為に親子兄弟が別れ別れに住み、許嫁や恋人同士が割かれてしも(ママ)うという悲劇もいくらもあったようで、そのうらみつらみは歌に歌われて残り、或は伝説として今日に伝わっている。それは人頭税の重圧を負わした上に、健康や生命の保証もないマラリアの有病地帯に、無防備のままに人民を投入し、苛酷な労働を強制した無謀な政策であって、いかに封建の社会とはいえ、離島住民のみに犠牲を強いた血も涙もないまことに非情きわまる政策であった。

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          大津波で打ち上げられたと伝えられる大岩=石垣市大浜
 以上のように王命を笠に着て強制した移住政策、そして建設した新村は、当時の群島人口の状況から判断すると、一時はこの政策は比較的順調に進捗し、大いに成果を挙げていたであろうことが推測される。然し明和8年(1771)の大津波によって全群島にわたり手痛い打撃を蒙り、事態は一変した。すなわちこの大津波によって人も、村も全滅した新村もあり、人口の激減、田畑の流出などで蔡温の寄人政策は遂に一大破局を迎えたのである。この危機に対し、王府は八重山蔵元を指揮して極力再建の措置を講じ、又その後幾回となく人口の補充など弥縫策をとったけれども、結局頽勢を喰止めることはできなかった。新村の建設は天明5年(1785)盛山村をもって終わっている。
  


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