レキオ島唄アッチャー

『黒島誌』に見る移住記録

 『黒島誌』に見る黒島からの移住記録
 
 「小説化されたつぃんだら節」で黒島らかの移住について書く際に、運道武三著『黒島誌』を読んでみた。そのなかに、王府時代の黒島から八重山の他の島への移住がまとめられている。これも併せて紹介しておきたい。

 黒島は疫病がなく住民は健康に恵まれ良く働き、豊年を迎え、神行事が盛んに行われ、お蔭で子孫の繁昌旺盛で人口は年々増える一方で、限られた土地での耕作も限界を極めた。当時の役人は首里政庁に申請し移住を断行した。

○1703年 鳩間村独立
 鳩間村は人口狭少な一部落で行政上対岸の西表島の鬚川村の管轄区域でしたが鬚川村がマラリヤその他のために逐次衰微して今や独立村の資格を失ったので行政上管轄区域を遠い古見村に変更するの止むなきに至った。鳩間と古見村は6里余の海上で島人が諸行事をするために古見に行って滞在したり、往還のための費やす日数夥しく村政上非常に支障を来たした。保里部落は人口の多い割合に土地が狭いため、納税も生活上困難であったのでその内、人口60人を鳩間島に分村し、人口105人となったので、1703年独立認可した。
 
○1711年 黒島から167人、平久保へ移す。
○1732年 野底村の創設
 黒島は人口増加して土地が狭く、石垣島の野底に往来して田畑を作って居ったので1732年、人口400人余人を移住させて野底村を創設した。

○1779年 前里(真栄里)村の再復興移民
 真栄里村は1757年、平得村の人口2105人(に)繁栄し内885人を分村し、真栄里の新村を認可した。1771年、明和の津波のため1173人の中908人溺死したので、蔵元は黒島から男135人、女178人、計313人に強制移住を命じ、生存者265人と会わせて578人となし、真栄里村を再復興する。黒島からの移住は仲本部落であったという。
                    137.jpg
             石垣島最北端の平久保崎灯台
○1734年 伊原間村の創立
 伊原間は従来平久保の管轄区域に所属する小部落であった。1734年(享保19年)人口168人(に)繁栄し、登野城、石垣両村より140人の移民と併せて人口308人となったので首里王府は独立を認可する。

○1771年(明和8年)3月10日、大津波の天災に逢い人口720人の中625人溺死し僅か95人生存する。そこで八重山の行政官庁の蔵元では部落の復興計画を立て、黒島から167人(男64人、女103人)移住を命じ、玻名野(ハンナパフ)と称する所へ旧伊原間を移転し、それに舟越村をも合併して人口262人を以って、新村伊原間村を創立した(現伊原間)、黒島から移住した部落は東筋部落で道切り移民をした。当時の世持役は、前仲宇津真利氏である。

○1857年(安政4年) 名蔵村、上原村、桴海村の補充移民
 黒島村の人口1550人に繁栄し、耕地面積と人口との釣り合いがとれず、生産高が少なく、その上人頭税の負担に苦しみ、村行政上の支障が多かった。黒島の役人は、村の幹部と協議し、計画して、八重山の行政官庁、蔵元に移住を陳情し、人口400人を上原に150人、名蔵200人、桴海50人に補充移民を断行すべく首里王府に申請を提出して認可される。当時黒島の首里大屋子は、黒島の産業を立て直しに功績のあった首里大屋子であるが使命が不詳で残念である。尚当時、村の復興に活躍された、本原仁屋の功績を忘れてはならない。本原仁屋こと、横目筑登之この人である。

 黒島に伝承される民謡の年代と作詞者
 ちいんだら節
 1732年(享保17年)黒島の保里村(保里、東筋)から男女400人をマラリヤ病の強烈な野底に強制移住を命じたのである。今から255年前の悲劇であった。当時黒島は島の周囲12.65㎞、面積13.72平方㎞の島嶼で人口は1300人の飽和状態であった。
 首里王庁では移民計画を樹立し強制移民(道切移民)が強行された。
 黒島からいかに再三にわたり移住が強行されたのかがわかる。
スポンサーサイト

八重山の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |
<<シニアピアノコンサートでツレが演奏 | ホーム | 小説化された「つぃんだら節」、移住は難儀を救うためとは!>>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

| ホーム |