レキオ島唄アッチャー

小説化された「つぃんだら節」、移住は難儀を救うためとは!

 移住は百姓の難儀を救うためとは!

  比嘉清著『遙かなるパイパティローマ』の抜粋は以上である。
  痩せた小さな黒島の島民は、肥沃な石垣島に舟で出かけて、「仕明地」(開墾地)で耕作していた。八重山では、稲作には不向きな島にも、米作による納税が義務づけられ、島民が石垣島や西表島に耕作のため、船で通ったり、小屋を作って泊まり込んで働いたことはよく知られている。開拓による仕明地での耕作は、農民にとって苦労は多いけれど、米を作り納税するためにはやむを得ないことだった。

  この仕明地に出かけて耕作することと、移住による新村建設は、別の問題である。移住は、長年、ともに暮らし働いてきた集落の住民の恒久的な分断、島分け(分村)となる。しかも、マラリヤの犠牲になり易い子供や老人を伴う家族単位で移らなければならない。だから、強制移住を恐れていたのだろう。
  黒島では、島の耕地は増えないのに、人口だけは増え、頭割りで課せられる税の重圧が増大する。しかも、天候不順で日照りが続くと、納税に支障を来す。税が完納できなければ家財没収にされる。滞納は避けたい。かといって減税だけを陳情すれば、強制移住の口実にされる恐れがある。この悩みを解決する手段として、百姓の希望する条件を付けて、島民の仕明地への移住に応じる。移住の条件とは、移住は希望者に限り、移民は5年間免税するなどである。

  一方で、財政難を抱える王府の三司官・蔡温(サイオン)は広大で肥沃な割に人口が少ない石垣島や西表島に目を付け、移住による新村建設と開拓を目論んでいた。黒島の島民からの陳情を逆手に取って、石垣島野底への移住と新村建設を命じる。百姓の自由な移住は認めないのが王府の政策。無慈悲な線引きによる島分けと移住が強制された。恋人もその仲を引き裂かれ、「つぃんだら節」の悲劇が生まれた。
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               野底岳が見える
  この黒島の島分けについて、首里王府からの布達書と八重山蔵元からの報告・問合せの往復文章集「参遣状(マイリツカワセジョウ)抜書(上)」(石垣市史叢書)を読むと、住民の苦難はまったく見えてこない。次のように記述されている。
「八重山の黒島という離島は、土地が狭い所であるが、だんだん人口が繁栄し食糧も続きがたいので、近年より川平地方の野底という所へ海路を往復して畑作し、ようやく生計を立てていて、難儀している。それで400人ほどを分けて、右の野底へ村立するのを申し付けてほしいと、今回在番と頭から申し出てきた。さて、野底は平久保村と桴海村の間5里ほどを隔てた所にあり、土地は広く津口もあり、用水も良い所ということなので、今回村立をして野底村と称し、与人一人、目差一人を新規に設置すること」(1732年「覚」)

  王府の公式文書は、百姓が出張耕作で難儀をしているので、移住させ新村建設をさせたいとのべ、あたかも百姓の難儀救済のための移住であるかのように描いている。移住の実相とは程遠い役人流の表現である。
  これまで紹介した比嘉清著『遙かなるパイパティローマ』は、黒島の強制移住の史実をベースにしながらも、物語はフィクションである。しかし、本書で描かれた黒島の移住をめぐる様相は、創作を通して歴史の実相に迫っているのではないだろうか。そんな思いを強くした。
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