レキオ島唄アッチャー

八重山の祭りや遊びも解禁された

 祭りや遊びごとが解禁された
 八重山では、1767年に王府から与世山親方(ヨセヤマウェーカタ)が派遣され、八重山の行政状況を視察し、その結果を報告したさいの布達で、祭りや祝いごと、遊びなどを禁止したり、軽くすませることを命じた。
 しかし、年ごとの豊作、豊年を祈願する祭りや人生の節目の祝い事などは、島に生きる百姓にとって、欠かすことができない行事である。遊びごとも、辛い農作業に明け暮れる日々の中で、活力を取り戻すためにも必要なことだ。
 首里王府もさすがに禁止一辺倒では立ち行かないと感じたのだろう。祭りや遊びごとを解禁することを余儀なくされた。
                アンガマ
      石垣島のアンガマ

 では、どのような祭りや祝い事が禁止されていたのだろうか。『与世山親方八重山島規模帳』から見ておきたい。『規模帳(キモチョウ)』は、行政の規範とされる文書である。
 「年に一度、御嶽の掃除ならびに猪垣の修補の時、男札持人が米を出しあって神酒を作り持参して、一か所に集り手隙を費やし、いたずらに呑みつくす村もある。良くないので今後このような無益なことは止めること。」
御嶽(ウタキ)は住民にとって、五穀豊穣など祈願する大切な拝所である。掃除をすればその後、神酒を酌み交わすのは当たり前なのに、禁止された。
 
 「平久保・桴海・川平・崎枝の四か村には、節祭りの時にマユンガナシといって二人異様ないでたちで村中を通る。その家の吉例を申し立てるので家主から皮餅・神酒などを進めるが、良くない風俗なので、今後は止めること。」
 「古見・小浜・高那の三か村では、豊年祭と時にアカマタ・クロマタといって二人が異様ないでたちで神のまねなどをする。良くない風俗なので今後は止めること。」
 「マユンガナシ」は、旧暦9月の「節祭(セチエ)」に真世(マユ、豊穣の世界)の神様が訪れて「カンフツ」という神の祝言を伝える奇祭である。
  「アカマタ・クロマタ」は、豊年祭に登場する来訪神で、赤面、黒面をつけ一軒、一軒回るが、部外者には非公開の秘祭。伝統あるどちらの祭りも、王府の役人には「良くない風俗」としか映らない。

  「毎年、9,10月頃に種子取祝いといって、家々で赤飯などを作り親類・縁者に贈答する。また、神酒を作り客を招き、いろいろもてなしをするが、今後は家族だけで軽く祝うこと。」
 「米粟の初を祭るため、家々で神酒・酒・肴などをこしらえ呑み食いし、もてなしをするのは良くないので、今後はこのような出費がないように祭の儀式分だけ作ること。」
 「百姓らが諸祝儀ならびに年忌のとむらいの時招く客は、式が済めばすぐ帰るべきだが長居し、時には翌日までかかって亭主に迷惑をかけているのははなはだ良くない風俗である。今後は儀式が済み次第すぐに帰ること。」
 「平久保村遠見番人が各々の身体のため、立願・結願として仲間中が寄り合い、その親子・兄弟・姉妹まで大勢を招き、いろいろもてなしをするふうがある。良くないので今後はもてなしなどをせず家族だけでいかにも簡単にすること。」
 
 「元服祝いは、それぞれの財力に応じて行うものであるがその考えがない。いずれも財力以上の出費があるので貧しい者は18,9歳まで片髪を結わない者もいる。こうした風習ははなはだ良くないので、今後は財力に応じていかにも簡素に祝うこと。」
 「8月15日の夜に、男女の縁のある同士が集まって神酒・肴・盛り合わせなどを作り、磯辺に行って楽しく遊ぶ所もある。男女が混じり合い、風俗の乱れ、無益な手間なので、今後は止めること。」 
 このように農事にかかわる祭りや祝い事、遊びまで中止や簡素にするよう命じられた。
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  写真は豊年を願う「ミルク行列」(那覇市小禄)
 しかし、住民無視の取り締まりは長くは続かなかった。
首里王府からの布達書と八重山蔵元からの報告・問合せなどをまとめた『御手形写(オテガタウツシ)抜書』(1771~1830年)によると、1793年8月、天願親雲上・具志川親方から八重山在番に次のような布達がされた。
 「両先島は昔から老若男女が時節ごとに祈願や祭事を行ない、野原や浜辺へ出て遊び事などがあったが、乾隆32年(1767)に王府より御検使を遣わされた時に禁止された。しかし百姓たちは皆同じように普段は苦労して働いている者であり、右の行事のような昔からのものを禁止されてはかえって張り合いをなくし、農業などの励みにもならない。そのうえ昔からの旧俗を止められたことが、村人の不安の種になっており、今回からすべて昔どおりに行って良いと仰せ付けられたので、祈願や祭事、遊び事など従来どおりに執り行ない、農務やそれぞれの仕事にも精を出して働くように申し渡すようにとのお指図である。」
 
 ここで注目されるのは、昔からの祈願や祭りごとなど旧俗を禁止したことが、「村人の不安の種になって」いるということだ。
 祭りごとなど禁止令が出された1767年以降、1771年に明和の大津波が発生し、八重山・宮古で遭難者1万1861人にのぼった。1772年に風水害による凶作に襲われた。1776年に八重山では大飢饉・疫病の流行で3733人もの死者が出た(新城俊昭著『琉球・沖縄史』から)。
 豊作、豊年を願う大切な祈願、祭りごとまで禁止したことが、このような相次ぐ大災害や凶作、飢饉、疫病を招いたのではないか、と島民たちを不安に陥らせたのだろう。
 それに加えて、遊びごとも解禁されたのはなかなかの英断だ。遊びは、百姓にとって働くための「張り合い」であり、「農業などの励み」として欠かせないというまともな判断を導いたようだ。
 王府が、人頭税の過酷な納税を強いながら、旧俗も民意も無視して百姓を抑えつけるだけの取り締まりが、百姓の働く意欲を低下させ、不安に陥らせ、根強い抵抗を招くという矛盾に突き当り、手直しをせざるをえなかったのだ。
 
 
 
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