レキオ島唄アッチャー

沖縄の産業の恩人を祀った世持神社、その2

 なぜ世持神社がつくられたのかの続きである。
  1933年12月も「神社設立発起人会」が結成されることになった。その設立会のときに、沖縄文化協会の島袋源一郎か ら、沖縄産業の発展に功績のあった蔡温もいっしょに祀る新たな提案がなされ、同神社に三大恩人としていっしょに祀る(合祀)ことが決定された。
  その後、1934年には、沖縄県知事を会長とする「神社創立期成会」が結成され、島袋源一郎の提案により神社名を「世持神社」とすることが決まった。「世持」とは、沖縄の言葉で「ユーモチ」といい、世の中を支えるという意味があり、3人は沖縄の産業を支えた恩人として祀られることになった。
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 翌年の1935年の3月に、神社の建設予定地として那覇市奥武山公園内が、那覇市議会で承認され、場所が決定した。
 しかし、内務省から神社創立の祭神は正三位以上(明治政府が与える神社の位が三位以上)でなければならないとして不許可になり、結局は、県の神社の下に位置する「郷社」とされ、贈正5位の具志頭文若(蔡温)を正座、儀間真常・野國總管を左右座にすることで認定された。1937年2月28日にようやく世持神社創立の許可が正式におりることになった。
  「このように、産業界の大恩人・野國總管は沖縄産業の恩人に感謝する形式を取りながら、戦時中の皇国意識(天皇のおさめる日本国の国民としての意識)をさかんに高めていく当時の社会の動きを背景に、世持神社の祭神として祀られ、神格化されることになりました。それは野國總管が、国民精神を高めるための象徴として位置づけられたことを示すものでした」
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                     産業恩人を顕彰する碑

 以上が紹介文である。
  サツマイモやサトウキビが沖縄県民の食生活と産業振興の上で果たした役割は絶大なものがある。野國總管と儀間真常が沖縄の産業の大恩人であることは間違いない。二人の業績を後世に語り伝え、その精神を学ぶことは大事であるが、神社を建て、祭神として祀り、神格化することが果たしてよかったのだろうか。やはり、神社は時代の産物だ。
嘉手納町では、「カデナといえば米軍基地」のイメージばかりが強い。その中で、甘藷伝来400年を機に、野國總管を町の誇りある偉大な先達として、顕彰して語り伝えて行こうと野國總管まつりをはじめさまざまな取り組みを行っている。こうした活動こそ大事だろう。
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