レキオ島唄アッチャー

比嘉加津夫氏の平敷屋朝敏論、その3

 民衆の「熱い思い」を伝えた作品
 
  平敷屋朝敏の「手水の縁」が、当時の封建的な社会制度にあがらい、若い男女が自由な恋愛を成就するという、他に比類のない作品であったことを比嘉加津夫氏は、以下のように明らかにしている。
朝敏の「手水の縁」は、おそらくもっとも写本の多く現存している作品の一つである。組踊研究に長年うちこんでいる当間一郎氏は「手水の縁」の写本は、8種類ほどが現存していると言っている。最も古いものは多良間島石原家が所蔵しているもので道光28年(1848)のもの(略)で、残りは明治18年から明治39年までのものだという。
 そして、当間氏は
<「手水の縁」のみはごく初期においては、村踊りの世界ではほとんど演じられてなかったのに、このように写本が定着しているのはなぜか>
と問い、その理由について口碑伝承から、①表向きは歓迎されなかったが、若い人たちは非公式な形で多くのファンを持っていた、②それが恋愛物であったこと、③作品が首里王府へ反発して処刑された人だったためであろうという点をあげて説明している。
                安謝、朝敏処刑地の神社
       平敷屋朝敏が処刑されたと伝えられる那覇市安謝にある恵比寿神社
  この見解はかなりの信憑性を持っているのではないかと思われる。そして、その見解につけ加えるものがあるとすれば「手水の縁」の取り扱っている恋物語は、当時の社会制度に<アンチ>を提起したものであったということであろう。
 つまり、「手水の縁」は制度的儒教思想でもって民衆の心性を閉ざそうとし、自由恋愛を道徳的不義とみなして封殺しようとした時代の中から生まれてきた作品であったということである。そのため、制度が極度な姿勢でもって取り締まろうとした自由恋愛を、発想の基盤にして、作品をものにしたため、体制側から作品それ自体が一種のタブー本とみなされ、拒否されたのだろう。
 為政者にとって、自由恋愛は人心を乱らなものにするということで呪術行為や悪病のように嫌悪され、恐れられていたものの一つであった。どのような制度であれ、それが最高の形で保たれているということは、民衆一般の意識がその方向に向き直されていたということを意味する。制度の息づかいを首肯する形で動いていたということである。…
 「手水の縁」は、制度がもっとも嫌悪するテーマを積極的に追求し、そのため制度からつまはじきにされた作品であり、しかも作者が王府によって処刑された人だったためとみていいのではないか。現在の私たちは少なくとも、そのような制度や社会から遠くへだたったところでの思考にならされているため、たまたまそれらのことが奇異にみえたりするだけなのだ。だから「手水の縁」であろうが、平敷屋朝敏であろうが、蔡温や蔡温につらなる為政者であろうが対象化することができるのである。
  だが、すでに琉球処分が断行され、これまで王府及び薩摩支配が消滅していくと、またさらに民衆の無意識のかかえていたものが一せいにふき出してくる。そのひとつが「手水の縁」の蘇生にもつながっていたと言ってもいいのではないか。…
 写本が多く残っているということは、当時解禁された作品であるということも当然であるが、それ以上に多くの人々の無意識の中に潜在していた「熱い思い」をよく伝えている作品であったということのためではないか。無意識の層に抵触しない作品はどのような作品であれ生きられないし、残らない。また、それが作品の運命というものである。
                  朝敏処刑地の恵比寿神社の裏
             朝敏が処刑された場所と伝えられる恵比寿神社の社殿の裏
 又吉洋士氏の「朝敏研究小史」によると、廃藩置県以後、士族に独占されていた組踊が商業演劇でも演じられるようになり、中でも「手水の縁」は旧暦3月3日にはたびたび上演されていたとのことである。あるいは、明治45年(1912)4月20日の沖縄座上演で「濡れ場がリアル過ぎるということで中止を命ぜられた」とのことだ。…
 「手水の縁」は、歴史の中で二度の弾圧を受けたことになるわけだ。この時期「手水の縁」が解禁されるのは、大正3年(1914)3月であった。

 比嘉氏は、「手水の縁」が「自由恋愛を道徳的不義」とされた時代の中から生まれ、体制側から「一種のタブー本」とみなされたこと。王府時代だけでなく、廃藩置県後も上演中止を命ぜられ「歴史の中で2度の弾圧を受けた」こと。それにもかかわらず、組踊の写本が最も多く現存している作品であるのはなぜなのか。その理由として、この作品が自由な恋愛の成就を描いた「恋物語」であったこと、朝敏が処刑された悲劇の人物だったこと、「当時の社会制度に<アンチ>を提起したもの」だったことを指摘している。「手水の縁」が、民衆の間では無意識の中に潜在していた「熱い思い」をよく伝えている組踊だったため、抑圧の体制が終焉すると蘇生につながったことを明らかにしている。
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