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壺屋から始まった那覇の復興

壺屋から始まった那覇の復興

  那覇市は、1944年10月10日、米軍の空襲により甚大な被害を受けた。今年は70周年になる。空襲は沖縄戦の始まりだった。  
  戦前の那覇市は、人口65000人を数えた。現在の那覇市は、旧那覇市と首里市、真和志村、小禄村が戦後、合併したもの。1945年4月以降の地上戦で、那覇は現在の新都心の「シュガーヒル」をはじめ、激しい戦闘が展開された。
  官庁街、銀行、商店など集中していた、旧那覇市は灰燼に帰した。廃墟と化した那覇市は、米軍が全域を接収して、市民は中北部などの収容所に送られていた。
  戦後は、金網を張り巡らせた物資集積所、戦闘部隊の兵舎ばかりの軍事基地だった。米軍は、那覇市への立ち入りを禁止していたので、市民は帰りたくても帰ることができなかった。
  そんな那覇で復興が始まったのは、「ヤチムン(焼物)のまち」で有名な壺屋(ツボヤ)だった。壺屋の陶器は、300年余りの歴史を有するが、戦前は、周りにはまだ畑が広がっていた。戦災の被害は比較的軽く、家屋や窯が残っていた。
 
  収容所では、米軍の缶詰の空き缶を食器代わり使う生活だったが、日常生活を営む上では食器は不可欠である。戦後最初の中央政治機関・沖縄諮詢会の工業部長・安谷屋正量が、まず食器の製造で工業を起こそうと、軍政府に働きかけた。当初、軍政府は那覇に入るのに難色を示し、石川市(現うるま市)での製造を奨めた。石川では窯を築くことから始めて半年から1年かかる、壺屋では1か月で作れると約束して、認めさせた。
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                  壺屋の南窯
 久志、田井等(現名護市)、石川、宜野座などに散らばっていた職人を集めた。1945年11月10日、城間康昌を隊長とする「陶器産業先遣隊」が乗り込んできた。12月15日には、辺土名にいた大城鎌吉を団長とする「製瓦業設営隊」が荒涼とした牧志に入ってきた。大城は戦前、ここで瓦工場を経営していた。
  陶芸班は、窯を修理して約束通り1か月後にはマカイ(飯・汁椀)、湯飲み、皿などを生産し始めた。大城ら設営隊は、まず壺屋の壊れた民家の修理から始め、規格家屋を建てて住宅の確保に着手した。

  壺屋の周りは米軍部隊に取り囲まれ、治安が悪かったため、当初男性だけが移動を許された。先遣隊は地区米軍に強く要請して、翌年1月3日には那覇初の行政機関・壺屋区役所設立にこぎつけた。集落の真ん中に、民家を借りて区役所と警察を置き、米軍がМP(憲兵隊)を配して厳重警戒する中で、家族が引っ越してきた。月末には周辺は1000人ほどの集落になっていた。1月27日には、150人ほどの子どもたちをテントに集め、壺屋初等学校が開校した。
  軍政府は、3月下旬にようやく住民帰還を認める方向に転換した。先に那覇に入った親類縁者を頼って、方々の収容所から割り当てられた土地に住民が戻ってきた。
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                        壺屋の製陶所
 1946年4月4日、壺屋区は那覇市に昇格、戦前那覇市長をしたことのある元判事・当間重剛が市長に任命された。
 (『戦後をたどる 「アメリカ世」から「ヤマト世」へ』の由井晶子著「廃墟からの出発」から、要約、加筆して紹介した)
 壺屋に職人、家族らが住みつくようになると、それに合わせて、自然発生的に闇市ができていった。ガープ川沿いや川の上にも水上店舗が立ち並んだ。1950年には、木造4棟の長屋の公設市場が建てられた。
  また1948年1月には、牧志の米軍の物資集積所になっていた場所(現在のてんぶす那覇付近)に、国際劇場がオープンし、商店が軒を並べるようになる。「奇跡の一マイル」と呼ばれた「国際通り」は復興那覇のシンボルのような発展を見せていく。
  「戦後の那覇は、先遣隊・設営隊が入った壺屋から始まり、国際劇場のある牧志を中心に商店が軒を並べて発展していった」(同書、大濱聡著「国際通り~奇跡の1マイル」)

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