レキオ島唄アッチャー

苦難を乗り越え教本を完成させた大浜安伴氏

  八重山古典民謡の教本を完成させた大浜安伴氏が、いわれなき中傷を受けたといわれる。それはどういうことなのか。大田静男著『八重山の芸能』を読んでいると、それに関連する記述があった。以下、同書からかいつまんで紹介する。
 大浜ほど八重山民謡を愛してやまない人はいないであろう。苦難と、屈辱に耐えながら人生の全てを八重山絃歌にかけた人だけに自己に対しても厳しく、弟子にも芸に関して厳格である。八重山絃歌に関して歯に衣を着せぬ発言のために敵も多い。だがそれは安伴のこれまでの人生を省みれば、だれでも納得するであろう。

 大浜は大正3年(1914)石垣町字石垣に生まれた。昭和4年(1929)、安伴は天久用立の門を叩いた。当時としては破格の3円の月謝を払っての入門であった。安伴は雨の日も風の日も通いつめたが、天久の家の近くにはいつもこっそり母が立ち聞きしていた。安伴は練習から帰ると遅くまで復習をしたが、師匠のような節回しが出来ず悩んでいると、母が師匠の節回しをわざと歌って気づかせたこともあったという。
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                      八重山古典民謡の先師6氏(先師顕彰公演冊子から)
 天久の子弟指導法は「歌を確実に覚えるコツは他人に教えることだ」とい、安伴もそれに従い隣近所の宮良高薫、大浜賢扶、玉代勢長傳、宮良高林など後の八重山民謡の第一人者と呼ばれる人たちを指導した。昭和11年(1936)頃天久は那覇に去り、安伴は石垣喜保に師事した。石垣は美声の持ち主で、笛の「段の物」の最後の演奏者である。
 安伴は笛の名人でもあるが、石垣の影響があるかどうかは知らない。揚げ出しで歌う『月ぬ真昼間節』(ツキヌマピローマブシ)はこの人から安伴が習得したものである。

 安伴は戦後初のトウバラーマ大会で優勝。昭和31年(1956)八重山文化協会から『八重山安室流師範』の称号を授与された。その時ほかには登野城(トノシロ)風の大浜津呂と舞踊の渡慶次長智が推挙され、安伴は文字通り石垣風三絃の第一人者と認定された。
  そのころ安伴は一冊の古い工工四を手に入れた。それはB円(米軍発行の軍票、通貨)で300円もするものであった。それは安室流原本と称される『八重山歌工工四』であった。 
 そのままでは弾けない工工四を整備するため、安室孫師の子孫といわれる人を訪ねて、その工工四を手本に工工四を作りたいと申し出たところ断られそのうえ工工四も取り上げられた。
  その“工工四事件”や東京公演の団長をつとめた宮良賢貞との工工四や芸能での軋轢、信頼をよせていた弟子たちの造反の中で打ちのめされた。音楽活動のいやがらせ等、安伴は石を持って追われる如く、失意のなかで八重山を去った。
昭和35年(1960)上覇した安伴は識名霊園の管理人となった。八重山歌の第一人者としての誇りを傷つけられ、人間不信に陥っていた安伴は人目をさけひっそりと暮らすことを望んでいた。しかし、第一人者で実力を知る者たちがそれを許さなかった。安伴は八重山民謡研究会を主宰し指定の養育につとめた。
  昭和46年(1971)安伴は念願の絃と譜面の一致する『八重山民謡三味線工工四』上・下巻を発刊した。その後、レコードや声楽譜付の工工四も出すなど文字通り八重山民謡の基礎を築いた。 


  最近は、大和人で八重山古典民謡を学ぶ人がとても増えている。ルーシーさんのような南米出身の県系人や高知県出身の山本藍さんなど、県外の人たちも教師免許も得て八重山民謡唱者となっている。安伴氏が作り上げた声楽譜付きの八重山古典民謡工工四は、とっても心強い教本である。その恩恵は計り知れないものがある。
 なぜか、月1回音楽好きが集まる「アルテ・ミュージック・ファクトリー」の常連の人たちが「あんぱん(安伴)さんは知ってる。識名霊園の管理人をしていたよ」と気楽に語る。その業績まではよく知らないけれど、身近な存在だったようだ。
 安伴氏は、1983年に沖縄県指定無形文化財「八重山古典民謡」保持者にも認定された。2001年亡くなられた。
  

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