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笹森儀助の見た与那国島の現実

笹森儀助の見た与那国島の現実

 青森の弘前藩士の子として生まれた笹森儀助は、明治26年(1893)に南西諸島を探訪し、見聞をまとめた『南嶋探験』を書いた。その際、与那国島に明治26年8月1日―3日滞在した。短い間にも、最悪の税制といわれた人頭税のもとで、貢租の未納の状況について、特に関心を持ち、実情を聞き出した。驚きをもって記している(東洋文庫版のカタカナをひらがなに直した)。

 未納の実態を調べる
 笹森は与那国島に渡ると、番所や駐在所などで、村詰与人(ユンチュ)、村吏や巡査らと面談した。
 明治25年末の与那国島の島民は、おおむね総戸数380戸(内1戸士族)、人口2120人(男1034人、女1086人)で、明治5年の調べに比べて、戸数は108戸、人口は775人の増加だった。これを見ると、総戸数のうち士族は1戸となっている。与那国島では士族は少なく、大半が百姓だったようだ。
 
与那国に渡る前、笹森は八重山役所で与那国島の「貢租民費負債高」を調べた。その結果は、貢租は「未納なし」、民費288石3斗4升8合1勺6才、貯蓄541石7斗2升6合2勺4才、其他人民へ貸与等未納93石3斗1升6合4勺7才、合計923石3斗9升8勺7才にのぼった。これは明治22年~25年までの未納高である。
 貢租は未納がないとされるが、貢税は貯穀(予備として貯える穀物)等から立て替えて納付するので、表面上は未納にならない。その代り貯穀分が多額の未納になっているのだろう。貯蔵する穀物は、「凶作の年の用意や王府に上納を運ぶ船が早く出る時などのために重要なもの」だった(『富川親方八重山規模帳』)。
 
民費は他府県の地方税と同様の公費である。
 いずれにしても、納税を義務付けられた人員が不明だが、戸数割にすれば一戸当たり2・4石余にのぼる。相当な未納高である。しかも、この未納高について、島民も村吏もその数を知らないというから、ビックリである。
 笹森は記す。
 「按するに、此未納穀1戸平均2石4斗3升に当る。然して嶋民一人として其数を知る者なし。村吏尚は知らす。況(イハ)んや其他をや。早く之れか処置を為さすんは、恐くは鹿児嶋県大嶋郡の負債覆轍に陥らん事、照〻として明らかなり。当局者の一考を煩はす」
 過大な「負債高」を負わせながら、当の百姓も知らないというのは、番所や役人がいかにいいかげんな実務だったのかがわかる。しかも、知らされないままに重い「負債高」が押し付けられる百姓は悲惨である。
 ここで、奄美大島の負債についてふれている。明治6年砂糖の自由売買が許可された奄美大島では、鹿児島商人が砂糖の売買権を独占し暴利を得た。大島の負債総額は20年間で100万円におよんだ。同じような事態に陥ることを警告している。
                      笹森儀助 (448x640)
 未納が生まれる理由
 与那国島の村総代を集めた場でも、笹森儀助は「民間の真情」を知るために「公費未納高如何」と質している。
村総代は「正男432名にて1人に付、7俵位あり。右は本年期に上納すべき分」と答えている。ここで注目するのは「未納は如何の事情より起りたるか」という問いにたいする答である。「正男」は、租税を課せられた15-50歳の男性のことである。
 「4,5年以前の不作と貢米積船2艘沈没との二途より来る。凡そ700石位あり。内、本納期に350石位上納すれは、新貢租を収むるの余地なし。然れは本年の貢租・民費又〻未納となるの姿也。…
 又曰く(村総代)、貢租・民費不納の多きは、1戸にして60俵の巨額に上るあり。少なきも10俵を下らすと」

 不作で満足に米が収穫できなくても、決められた貢租分を上納しなければ未納とされる。しかも、貢米を積んだ船が沈没すれば、百姓がまた上納を求められ、出来なければ未納とされるのは、理不尽そのものである。納税後の運搬途中の事故は、王府の損失として処理すべきものだろう。
 未納分を納めれば、新貢租の分はとても納める余裕はない。また、新たな未納が生まれる。これでは、百姓の未納は膨れ上がるばかりだ。
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