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ジョン万次郎「たった一人の日本遠征」

 沖縄ジョン万次郎会第9回講演会が9月27日、豊見城市の市社会福祉センターで開かれた。万次郎の研究者で川澄哲夫元慶大教授が「たった一人の日本遠征」と題して講演した。土佐ジョン万会から内田泰史会長も出席した。

 当初、演題を見て「?」という感じがしたが、万次郎の果たした役割に光を当てた講演内容で、疑問は氷解し納得した。
 キーワードは「二人の万次郎がいる」ということ。それは、万次郎が琉球上陸以降、幕府などの取り調べで、外国の事情など聞いた記録は、本当の万次郎が出てこない。万次郎は、日本の開国を統領(将軍)に直訴するために日本に帰国したことを強調した。
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 川澄先生は、アメリカに英語を学ぶため行った先が、偶然、ケンダル捕鯨博物館(マサチューセッツ州)。万次郎を知る人と出会った。その後、捕鯨船にも乗り、捕鯨博物館学術顧問も務めた経歴をもつ。 アメリカ、ハワイから万次郎に関する資料がたくさん送られてきて『中浜万次郎集成』を出版した。その他著書多数。
 万次郎を救った捕鯨船の『ライマン・ホームズの航海日誌』や万次郎の英文書簡、クジラ捕りの労働条件改善を目的とした新聞「フレンド」紙、江戸幕府取調記録など資料を駆使して話した。
 講演と同氏が執筆した「ジョン・マンの夢」(土佐清水市発行のパンフレット)からエキスを紹介する。
 捕鯨船に救われた万次郎は、アメリカで教育を受け、捕鯨船に乗り、世界の海を旅して国際的な視野でものを考えるようになった。なんとか帰国して、琉球あたりにアメリカの捕鯨船が自由に入港できる港を開くよう、統領に直訴することが自分の使命だと考えるようになった。
 帰国を決意すると、ハワイで知己を得たデーマン牧師に対し、その覚悟をしていると話す。デーマン牧師は、これを「日本遠泳」と名付け、「フレンド」紙に「無事に故国へ帰り着き、日本の開国に貢献し、ひいては通訳として成功する」ことを祈った。万次郎の帰国は、ペリーの日本遠征に先立つ2年前だった。
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 1951年、琉球に上陸し、取り調べを受けた際、「アメリカは大国ゆへ、他国を取るに及ばずとの了見」であると、領土的野心がないことを繰り返し強調した。琉球を離れ、薩摩、長崎、土佐で取り調べを受け、ようやく放免されたが、『外国の様子を猥(ミダ)りに物語りなど致さざるよう」仰せ渡され、日本を開国する力になりたいという夢は消え去った…
 ペリーが来航すると、万次郎は幕府に呼び出された。1853年10月、老中筆頭・阿部正弘、林大学頭ら幕府高官が列座する中で、アメリカの国情、ペリー来航の事情など聞かれる。万次郎にとっては、「統領に直訴」する絶好の機会であった。
 アメリカの政治について、上下の差別がなく、大統領は人民の入れ札で選ばれ、任期は4年である、アメリカが日本と「親睦いたし度とのこと」は「彼国積年の宿願」である、日本近海で遭難した米捕鯨船乗組員が日本で「咎人(罪人)同様の扱いを受けた」が、アメリカは日本人漂流民を保護してくれる、米人は「両国の和睦を取り結びたい」と申している、米捕鯨船が薪水食料を補給できる港を「薩州南島の内又は琉球」あたりを望んでいることなどを堂々と話した。
 1854年3月、結ばれた神奈川条約は、下田、函館の開港、合衆国漂民扶助の規定が盛り込まれている。ここに、万次郎の「捕鯨ボートによる日本遠征」は終わりをとげた。
 このあと万次郎は、咸臨丸の通弁官として渡米する。咸臨丸に同乗してアメリカに帰ったブルック大尉は、「咸臨丸日記」の中で、「万次郎が、日本の開国にあたって、誰よりも大きな貢献をしていることは、大変嬉しい」と記している。デーモン牧師も「ジョン・マンが日本の開国に大きな役割を果たしたことは間違いありません」と書簡で述べている。
 川澄先生の強調したいことは、このようなことだった。万次郎が果たした先駆的な役割を明らかにしたとてもよい講演だった。
 



 
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