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アーチ型の石門が美しい崇元寺跡

アーチ型の石門が美しい崇元寺跡

 美栄橋駅周辺の史跡を歩いたついでに、アーチ型の石門が美しい崇元寺(ソウゲンジ)を改めて紹介しておく。
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 石積みの3つのアーチ門と塀が伸びる崇元寺跡は、大和人の感覚からは、とてもお寺の跡とは想像できない。だが、3つのアーチ門のある石塀は、独特の美しさがある。昔は、門をくぐると大きな正廟があったという。いまはガジュマルの巨木が茂っている。
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                     崇元寺下馬碑    
石門の東に、石碑が建っていて「旧崇元寺第一門及び石牆(セキショウ、石塀) 崇元寺下馬碑」の案内板がある。そこから紹介する。
  崇元寺は臨済宗の寺で山号を霊徳山といった。王府時代の国廟で天孫氏をはじめとする歴代国王の神位が安置され、冊封使が来た時は新王冊封に先だって先王を祀る諭祭が行われた。かつて崇元寺は国宝に指定されていたが、先の大戦で正廟をはじめとする木造建築物はすべて焼失した。
               IMG_6774.jpg                              崇元寺の石門と石碑の案内板

  第一門及び石牆は正面中央の切石積み三連の拱門(キョウモン、アーチ門)とその左右に延びる両掖門(エキモン、正門の左右にある小さな門)を備えた琉球石灰岩のあいかた積みの石垣であり、沖縄の石造拱門の代表的なものである。
  石門の東に立つ石碑が下馬碑で、戦前は西にも同じものがあり、国の重要美術品に指定されていた。表はかな書き、裏は漢文で、この碑のところから下馬することを命じている。また、碑銘に「大明嘉靖6年丁亥7月25日」とあり、この年が1527年(尚清1年)にあたるので、崇元寺の創建はこの頃ではないかと考えられている。
 
 碑文は漢文・平仮名琉球文ともに、「いかなるものでも崇元寺の前では馬から降りよ」と述べており、歴代国王の霊廟である崇元寺の格式の高さを物語っている(『沖縄県の歴史散歩』)。
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                         『中山伝信録』に掲載された崇元寺の絵図
 1719年に冊封副使として来琉した徐葆光(ジョホコウ)の『中山伝信録』に掲載された崇元寺の絵図を見ると、崇元寺の全体像がわかり、往時の格式高い国廟の情景がしのばれる。
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 戦災後、那覇市でいち早く保護・復元された史跡が崇元寺石門だった。石門は、全壊を免れた数少ない史跡だった。1950年12月、この門の修復期成会が結成された。復元の話が出た当時、崇元寺の跡地にはすでに沖縄中央図書館(那覇文化情報会館)が建てられていた。期成会の会長は「この美しい石門を修復することは同時にわれわれの心を洗うことであり、沖縄人の精神の安定を取り戻すこと」であるとして、寄付金を住民に広く募った。1952年9月に完成した(那覇市歴史博物館編『戦後をたどる 「アメリカ世」から「ヤマト世」へ』から)。
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 米軍統治下の1950年代初めに、米国の政策や情報を住民に周知させるために設けられたアメリカ式文化センターの琉米文化会館が、那覇市ではこの崇元寺跡に建てられた。同会館は、那覇のほか名護、石川、宮古、石垣の5カ所に設置され、復帰時に各自治体に無償譲渡された(「沖縄コンパクト事典」)。
沖縄中央図書館はこの琉米文化会館に吸収され、同会館は、1969年に与儀の現那覇市立図書館の場所に新築移転した。その後、現市立図書館となった。
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