レキオ島唄アッチャー

泊の製塩風景(下)

 塩造りで生き抜いた人々
 泊村の前の海に面したところは道がなく、海水に浸食されて不便だった。兼久と呼ばれる浜だった。村中の官民が王府に、海沿いの道を造るよう陳情した。それがいれられ、石垣を築いて道を造った。泊前道が初めてできた。その後、前港の浜が屋敷になり、いまの前島となった。
 前島は、兼久とともに安里川から流れ出た土砂が積もってできたデルタである。デルタに発生した前島は、塩田で栄えて明治から大正、昭和にかけてその生活を支えてきた。
                  から1700古地図、県立図書館
  1700年以前の海岸線(県立図書館ホームページから)
 『泊誌』によれば、廃藩置県後、製塩と販売は自由にできたが、1907年(明治40)のタバコ、塩、ショウノウの専売統一法により、販売による利潤は取り上げられてしまった。製塩業者は大部分が貧乏で日々の生活にも困る状態だった。専売制になりさらに厳しくなり、廃業する人も増えたという。
 1913年(大正2)8月4日付「琉球新報」のルポ記事は次にように伝えている。
 「那覇区唯一の製塩地たる泊前島は区内における細民(貧困)地の一つである。…前島に行って住民の住家を見るとかや屋根といっても掘っ立て小屋同然の家ばかりで瓦屋根は至って少ない。…栄養不良の青ざめた顔の疲れ切ったような姿にその惨めたる生活が思いやられる」
 製塩業者に聞くと、「塩を造って売るその金で日々の暮らしが立つと思われては困る…いかに精出して製塩したところで月6~7円程度の収入しかない。…家族5~6人の口を糊(こ)する事はできない」。製塩だけでは食べられないので、壺屋や牧志へ小作に出ていたという。
 専売制でもっとも困窮したのは、首里、那覇や付近の田舎に塩の小売りに出かけて生活していた人々だった。他に活路もなく、窮迫して機織りや帽子を編んだり、「女人足」(力仕事)に出て賃銭を得てやっと生活していた。

 「前島町の製塩業者は貧乏人の子沢山で塩田の拡張の余地がなく、次男、三男は豊見城村与根に塩田を求めて移住した」(『泊前島町誌』)という。
 「塩造りの生活は豊かではなかったが、当時の沖縄ではみんな貧しく、生き延びれば有難い時代であった。前島はこの塩で生き伸びてきたのだから、たとえ豊かさを支えることは出来なかったにしても塩造りは前島の住民にとっては恩を恵んでくれたといわねばならない」(同書)
               IMG_6694.jpg
  泊潟原は、沖縄戦で那覇が陥落し、戦線が南部に移行するのに伴い米軍によって埋め立てられ、前島は南部島尻戦線への物資集積所とされた。朝鮮戦争への補給基地もこの前島にあった。兼久潟原も1954年頃、泊港の浚渫の際、そこから出た土砂で埋め立てられた。
 米軍の占領以来、そのまま軍用地となっていた泊地区の土地は、1954年以降、逐次開放された。
 いまは泊、前島あたりはビルが立ち並ぶ街となっている。
 泊前島の塩田と塩造りは、1972年の沖縄の日本復帰とともに終焉を迎えた。
 米軍占領下では塩の専売制はなかったが、日本復帰ともに塩の専売法が適用されることになったからである。泡瀬、与根、泊など県内各地にあった塩田はすべて廃業せざるを得なかったという。

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