レキオ島唄アッチャー

泊の製塩風景(上)

 那覇市の泊といえば、いまは離島への船の発着する港として知られる。泊港の歴史は古い。 
 那覇は昔、「浮島」と呼ばれる島で、不便な位置から港に不適だった。泊が古くから首里王府の貿易港とされていた。
 約700年も前、中山国の英祖王の時代に、久米島、慶良間、伊平屋、さらに奄美大島が入貢してきた。その貢物を納めるため、泊に泊御殿という公館を建てて、これらの諸島を治めさせ、その貢物を収納する泊倉を造った。
              1700年頃の那覇(那覇市歴史博物館)
     那覇市歴史博物館のホームページから
貿易港として、役所ができ、倉ができ、そこに勤務する役人たちが泊に住まい、泊村が発祥した。中国皇帝への進貢品として重要な硫黄が硫黄鳥島から運ばれた港が泊であり、それを貢物として製錬したところも、泊の硫黄屋だった。
 そんな泊村は、那覇、首里とは別に独立した行政の一区をなしていた。現在の泊1、2、3丁目、前島の1、2、3丁目からなる。
  『那覇市史 那覇の民俗』を読んでいると、泊の製塩についての記述があった。昔は、塩田が広がり、製塩が盛んだったという。いまはどこにもその面影はない。
 同書と『泊誌』から、製塩について紹介する。
 泊の製塩業の始まりは、約300年前、薩摩の弓削次右衛門という人から泉崎の宮城芝香(後塩浜姓)という人が、製塩方法の伝授を受け前島の内納(ウチナー)、兼久の外納(ソトナー)に約10万坪を拓いたのが発端である。宮城芝香は、製塩業に果たした功績によって塩浜姓が授けられたという。
 その後、前島住民がこれを受け継ぎ開拓し、明治、大正の年間には年産5万石におよび、沖縄の食塩の自給自足を可能にし、住民に多大な貢献をなした。その頃が前島の製塩業の全盛時代といわれている。
                  img020.jpg

 昭和5年頃の塩田の地図が『那覇市史 那覇の民俗』に掲載されていた。前島町の住宅地の西側が「泊潟原(カタバル、干潟)」、その潮渡川を越えた南側が「那覇潟原」、泊潟原よりさらに西側の海に面したところに「兼久(カネク)潟原」が位置する。

 「三村踊り節」という民謡に次の歌詞ある。
 「♪上泊、泊、元ぬ泊と三村 三村ぬ二才達(ニーセータ)が 揃とうて塩たち話 雨降らすなよー 元かんじゅんど」
  歌意は、次の通り。
 「上泊、泊、元の泊の3つの村の青年たちが、そろって塩つくりの話をしている 雨を降らすなよ 大きな損をするぞ」
 塩づくりにとって、雨は大敵だった。4,5月の梅雨期に入ると、雨天続きで1か月も製塩ができず、現金収入が途絶えた。模合(頼母子講)など出費は高利で金を借りてその場をしのいだという。
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