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那覇の宿泊所「ヤールグヮー」

 那覇の宿泊所「ヤールグヮー」
 
 その昔、沖縄の離島や本島の中部、北部から那覇に用務がある人は、日帰りはできないので宿泊が必要だった。このため那覇港の周辺に宿泊所が発達した。宿泊所を通称「ヤール小(グヮー)」と称した。漢字にあてれば「宿小」となるらしい。以下、『那覇市史資料編第2巻中の7 那覇の民俗』から、かいつまんで紹介する。
 那覇の港周辺に集中し、首里にはなかった。それは、離島や本島北部からの交通は船に頼っていたからである。

 ヤール小は、名称の上に利用客の出身地域の名をつけて呼ぶのが普通だった。例えば、イヒャ(伊平屋島)ヤール小、ケラマ(慶良間諸島)ヤール小、アグニ(粟国島)ヤール小、イイジマ(伊江島)ヤール小、トナチ(渡名喜島)ヤール小、大島(奄美諸島)ヤール小、エーマ(八重山諸島)ヤール小、クミジマ(久米島)ヤール小という島名をつける離島のヤール小と、本島のイチマン(糸満)ヤール小、ヤケナ(屋慶名)ヤール小という村名をつけるヤール小があった。
ヤール小が古くからあったのは渡地(ワタンジ)らしく、そこには20軒ほど裏通りに並んでいた。渡地は主に離島の人が利用した。
 
 宿といっても、老夫婦が自宅をそのまま宿泊所として利用する形をとっていて、相部屋が当たり前だった。
明治後半から大正期にかけて、民家利用から抜け出て本格的な経営に力を入れる者が出てきた。利用客は男がほとんどを占めていた。
 大正、昭和になると、本土へ女工などで就職する人々が増えてきて、船の出港に間に合わせて中頭、国頭から前日に泊まる利用もなされた。
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                        現在の糸満漁港

 ヤール小で特異なのは糸満ヤール小であった。糸満と那覇は距離が近いにもかかわらず、糸満ヤール小は7つか8つあり、他村に比べて多かった。他のヤール小が主に旅人の宿泊所だったのに対し、糸満ヤール小は漁夫が水揚げする魚の販売を目的とした糸満女性の詰所的なものであった。
  糸満のある漁撈組が、伊平屋とか渡具知あたりで追い込み漁をして水揚げした魚を、那覇の打ち合わせたヤール小に運び込む。漁撈組の妻など仲間で構成する魚販売グループ「カミアチネーグループ」があらかじめ待機していて、金銭は後払いで一括買い入れをする。
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              糸満市公設市場にかつての魚を売る糸満アンマーの姿があった
 魚をバーキ(ザル)に入れてカミアチネー(魚の行商)を行い、売り払った後に、グループの代表格、副代表格がその日に売れた売り値をもとに、漁夫の男たちにいくら払おうと決定し、払った。女性グループの配当は平等になされたという。
女性グループは、1、2か月という短期のヤール小住まいから、長い場合は8月から翌年5月までという長期の滞在をすることもあった。女性グループは、漁撈組が出漁するに際して、イモを買っておくなどもろもろの準備をする役割ももっていた。
 糸満の若い女性にとって、那覇のヤール小に詰めることは楽しみの一つでもあった。大正から昭和のはじめころの話である。
 沖縄県民が利用する宿泊所が一般にヤール小と呼ばれたのに比べ、大和人を主たる宿泊客とするものが旅館であった。ヤール小が民宿に近かったのに対し、旅館は本格的な宿泊所といってよかった。旅館ができたのは明治になってから。大和の商人の利用が目立って多かった。沖縄人は、宿泊料が高額なので、庶民には手が出なかったという。 
  
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