レキオ島唄アッチャー

那覇の遊郭・渡地

 離島や地方の人たちの遊び処だった渡地

 那覇市内には、辻、渡地(ワタンジ)、仲島の3つの遊郭があった。このうち渡地はどのような特徴をもった遊郭だったのか、『那覇市史資料編第2巻中の7 那覇の民俗』からかいつまんで紹介する。
 港にもっとも近い渡地遊郭のお客は、船乗りと島尻(沖縄本島南部)ニーセー(青年)たちだった。当時は、乗り物も運搬する輸送機関もないので、「サーターダル」(砂糖樽)は「ニーセー」たちの肩による天秤棒である。島尻から那覇まで砂糖樽を運んだ青年や、宮古、八重山や本島北部から材木、薪など物資を運んできた山原船(ヤンバラー)の船員たちは那覇の一夜を渡地で過ごし、島や田舎に帰っていった。首里や那覇の人はめったに来ることはなかった。
 渡地の遊女と「ヤンバラー」(山原船)とのつながりは深い。山原船が入ると「シムカタ」(島尻方面)から砂糖樽が入ると同じように渡地は景気がよくなった。渡地の女はお化粧をして山原船の船乗りが来るのを待ち、船乗りたちと情が細やかになるのは当然のことであった。
 山原船の船乗りや島尻の農民たちは、お上品な辻の女より、自分たちと同じ階級の百姓である渡地の女たちが気楽であったようである。
 遊女にはランクがあったらしい。辻は上等、次いで仲島、渡地の順だった。貧困にあえぐ百姓の娘たちが身売りされたことでは、辻も仲島も渡地も変わりない。
 明治の時代、「ドゥシル」(胴代=身代金)は10円くらいだった。米が1升7,8銭の時代である。田舎の苦しい生活をしている農家では「ただでもよいから娘をもらってくれ」と口減らしを望むことさえあったという。 
 渡地の遊女と「アンマー」(抱え親)は、地方出身が多いので、田舎にはかなれ自由に帰ることができた。しきたりの厳しい辻遊郭とは、異なっていたという。
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                         現在の那覇港
 遊郭にについて、わがブログでも何回か書いているのは、沖縄本島の民謡には、遊女が登場する曲がとても多いからだ。男女の恋歌は、士族と遊女、船乗りや地方出身者と遊女の関係を歌っている曲であふれている。
 「あやぐ節」は「♪宮古から船に乗り出し、渡地の前の浜に急ぐ」とあり、宮古の船乗りが、渡地に急ぐの様子が描かれる。
 「海ぬチンボーラー」は、「♪辻や豌豆(ヰンドー)豆 仲島や豆腐豆 恋し渡地いふく豆」と3つの遊郭が歌われる。少し卑猥な曲である。
 「三村踊り節」は「♪辻、仲島と、渡地と三村 三村ぬ女郎小達(ジュリグヮタ)が揃とうて 客待ち話 美ら二才から はい行逢らなや」。「遊郭のある三村の遊女が揃って、客待ちをしている イケメンの青年に早く逢いたいな」という意味である。
 「西武門(ニシンジョウ)節」は、首里の士族を遊女が見送る情景を歌う。
 「仲島節」は、仲島に渡る小橋を通して賑わった様子が描かれる。
 「吉屋物語」は、女流歌人で遊女の吉屋チルーの悲恋物語。
 その他、「恋ぬ花」「デンスナー節」「川平節」など数えればきりがない。沖縄芝居も、遊郭が登場する演目が多い。だから、曲の歌詞を理解するうえでは、遊郭の在り様を知ることが欠かせないからだ。
 
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