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対馬丸遭難者を救助した高知人、杉本寛さん

 沖縄からの疎開船「対馬丸」が米軍の攻撃を受けて沈没して8月22日で70年を迎える。
 対馬丸は1944年8月21日に1788人(疎開者は1661人、他に船員、船舶砲兵隊員)を載せ、2隻の護衛艦を含む5隻の船で船団を組み、長崎に向けて出航した。22日午後10時12分頃、トカラ列島の悪石島沖で、米潜水艦ボーフィン号の発射した魚雷を受け、わずか10分余りで沈没した。ほとんどの人が船から逃げ出せず、15歳以下の子ども1000人余りを含む1500人余りの命が奪われた痛ましい戦災事件だった。
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 助かった人たちも、日本軍がかん口令を敷き、「決して話してはいけない」とされ、悲惨な出来事を家族や周りの人に話し知らせることもできなかった。
 この対馬丸について、高知県出身の元漁船員が、救助にあたった状況を手記に残していて、それが2014年5月、対馬丸記念館に寄贈されて話題になった。まだ対馬丸記念館に改めて見に行っていないが、「琉球新報」8月17日付「新報小中学生新聞」に手記が掲載されたので、そこから紹介しておきたい。
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       写真はいずれも「新報小中学生新聞」より
 「当時小生は鹿児島県山川町の開発会社の開洋丸(鰹漁船)に甲板員として乗船同年8月23日午前9時頃、鹿児島県の七島の一ツで中之島(活大山 通称ヤケ島と呼んでいる)附近で操業中日本機らしきが低空で飛来し本船上を旋回しながら通信筒を投下するも海面に落下し、小生早速海中にとび込み拾い上げて見ると、昨夜(8月22日夜の11時頃)悪石島二浬沖にて対馬丸が米潜水艦に魚雷攻撃を受け 間もなく沈没 多数の遭難者がイカダにつかまり漂流しているので救助頼むとの事 早速操業を打ち切り 
附近で操業中の宮崎県の油津の鰹船にもそのむねを連絡し2隻が全速力で遭難現場に向いました。当着したのわ 多分同日の午后2時頃だと思います、 油津の漁船は途中エンジン故障で本船より約1時間半あまり遅れて遭難現場に当着しました。通信長(奥田一雄君)と小生ははだかになり まずロープを腰にくくり海中にとび込み、遭難者に接近ロープをイカダにむすびつけ 再三 くり返しながら 5、60人救助したのでわないかと思います 遭難以来約15時間近くもおよいでいる者 転覆している救命ボートの上で幾人か助けを求めている者 又 救命胴衣着用したまゝボートの下敷になり浮上する事が出来ず死亡している方が多さんいました。四方八方で イカダの上で必死で助けを求めているものゝ 小生達の船はそれ以上の救助は無理で当時は低気圧接近にともない気象条件が悪くやむえず 
救助を打ち切り遭難現場をあとにしました。一旦、山川港に入港し遭難者の引渡し手続するも軍部の許可がなかなかおりず 軍部の指示にしたがい、鹿児島港へ廻航の上 救助者を全員引渡しました。
対馬丸沈没した付近に日本の駆逐艦がいて潜水艦攻撃のため その附近一帯に爆雷を多数投下するも すでに潜水艦はいずこかに去っておらず爆発により大勢の方が死亡した  ようすです 救助した中には頭を怪我されている者 又先生で腸が見えている重傷の方もいました。わりかし元気でした 今その方達の生死もわかりませんが 救助者全員の氏名すら一人として わからぬまゝ別れました。
今その方達はどこでどうして生きているものか知りたいものです。 
 
 杉本さんは、当時まだ16歳だった。66歳で亡くなった。よくこのような手記を残していたものだとも思う。
 この手記を読むと、遭難者の状況と必死で救助にあたった漁船の乗組員の姿がリアルに伝わる。
  沈没したさい、二隻の護衛艦は、遭難者を救助せず、危険海域から姿を消したと言われる。先ごろ、天皇が対馬丸記念館を訪問した際、「なぜ護衛艦は助けなかったんですか」と質問したことがあった。
 「二次災害防止のため残存船を逃がすのが最善の策」という見方もある。しかし、2隻の護衛艦とも学童ら遭難者を見捨てて、危険海域から去るというのは、軍の論理を優先したということではないだろうか。
 もし、護衛艦が救助にあたっていれば…、もっと多くの艦船を早く救助に動員すれば救える命はもっともっとあったのに、という思いがこみ上げる。
 二度と繰り返してはならない悲劇である。
 









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