レキオ島唄アッチャー

与那国島・役人の圧迫と抵抗

 村番所で百姓を苛めた
 池間栄三著『与那国の歴史』によると、「当時の村番所は税の取り立てと百姓を呼び出して苛める所であった」という。賦役をはかどるために、村を西字12組、島仲字1組、比川字3組に区分して、各字毎にドウムテ(世持、総代)、アタマ(頭、組長)、ブサ(補佐)、ブ・カムイ(賦役係)等の世話役を置いた。その他にクウとアニチが番所に徴用されていた。
 ブサにはハル・ブサ(畑補佐)とダマ・ブサ(山補佐)がいて、何れも山野の取締り役であった。クウは番所の小使いのことであるが、計算に明るい者が採用され、時には上納米の取扱いもさせられた。無能者でも一族の威光によって役人になり、与那国島へ派遣されたものの中には、この平民子使いに上納米の計算を誤魔化されていたものもあった。
 アニチにはハマ・アニチがいて…いわゆる布晒し女のこと…ムラ・アニチは御用布を仕上げる役で、男が起用され、ハマ・アニチ交代してハマ・ヤテ(浜小屋)の夜の番人でもあった。
 さて、稲刈りが終わると、上納用として、乾燥した稲束を積み重ね、お椀を伏せた形のシラ(稲倉)を造った。各組毎に造ったので、これをフン・ヌ・シラ(組の稲倉)と言い、役人立会いの上にクウが稲束を整え、斤量をはかって、組の世話役達によって造られた。稲束六丸、二百十斤が三斗二升入れ一俵分であって、一丸は十束であった。
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                    写真は八重山上布(石垣市の博物館)
 シラを造る日に村の世話役達は現場の屋内に立会いの役人を招じて、山海の珍味を供し、女を侍らして大いに歓待しながら、屋外では、斤量を誤魔化して、未納者がないように工夫していた。このシラは翌年の2,3月頃に解かれ、各家庭で玄米にして三斗二斤(升?)俵を作り、倉庫に納めた。…
 上納俵の検収倉入りが終わると、飛舟を仕立てて八重山の蔵元へ通報し、グムテ・ンニ(御物船)の派遣方を要請した。…天候のため御物船の到着が遅延すると字民を繰り出して数百の俵を解き、虫の手入れをさせられたので、百姓の苦労は並大抵のことではなかった。…
 荒天のために長らく停泊すると、村ではナリコ(順風願い)と言って、牛を屠り、船員を招待して、盛大な宴を催した。
 これらを見ると、与那国島に赴任してくる役人だけでなく、島の住民が下働きに使われていて、無能な役人を巧みに利用して誤魔化すこともあった。また、役人を酒食でもてなし、その間に数量を誤魔化して未納が出ないようにするという巧妙な手段も使われた。人頭税の圧迫にあえぐなかでの、庶民の知恵だったのだろう。

 与那国の役人への抵抗
 琉球では、王府が百姓に耕作させた農地を、一定の年月で割り替えする「地割」制度がとられていた。だが、与那国島には地割制度がなかったようだ。
 「与那国島には地割がなく、百姓個人の家対王府の基本的な二者関係が長期間続いたので、百姓の感覚のなかに耕地に対する個人所有に近い感情」があった。そのため、地割方式よりも村(字)の「役持ち(役人の下で働く役目の者)」たちの「介在度は弱かったでしょう」という。
  地割制度だと、百姓は耕作する農地が数年ごとに代わるので、農地への愛着はわかない。所有感覚も持てない。百姓の生産意欲を失わせる側面がある。土地を多く割り当てられると、納税義務が増すだけだから嫌がった例さえある。
 このような琉球王国の支配は、日本の「幕藩体制下の諸藩にくらべて、より古い支配方式であり、より後進的な搾取のしかただ」と新里恵二氏は『沖縄史を考える』で指摘している。
 ところが、与那国では地割制度はなく、「個人所有に近い感情」があったという。役人の下働きの役目の者も「介在度が弱かった」と宮良氏は見ている。同じ王府時代でも、与那国と地割のある他地域の百姓とでは、意識の上で相当の違いがあったかもしれない。
 与那国では、役人側も「貢納さえきちんとできれば、管理支配はうまくいっていることになるし、さらに“百姓に嫌われたくない”という思いが、黒潮のど真ん中の絶壁に囲まれた孤島のなかで当然、働いたと考えてもいいのではないでしょうか」。宮良作著『国境の島 与那国島誌』は、このように解説している。
 役人と百姓の関係を見る上で興味深いことだ。
 人頭税による重い負担の中で、百姓たちが役人を誤魔化すという頭脳的な抵抗だけではなく、直接的な反抗もあった。
                   人頭税廃止百年記念の碑

                   写真は、与那国島の人頭税廃止百年記念の碑
 その代表的な事例が、喜舎場永珣著『八重山民謡誌』で紹介されている。
  小浜島与人(ユンチュ)で武芸の達人に宮良永祝という人物がいた。寛延2年(1749)に与那国与人に命ぜられた。蔵元の政庁では、当時与那国島に秘められた役人蹴落の蛮行を知りこれを矯正すべく計画を樹立し、永祝は適材として選抜されて与那国に赴任したのである。
 赴任後彼は何故にこの地では、かかる蛮行が行われるかと古老に尋ねた所、人頭税の苛酷と誅求に反抗した行動であると教えられ、この反抗は、人頭税の為の反抗であるという事であった。
 与那国島に赴任してくる役人を、蹴落とすとは驚くような抵抗の形である。お酒でも飲まして酔わせておいて、夜陰にまぎれて崖下にでも蹴落としたのだろうか。実際にどんな事例があったのか定かではない。でも、ありそうな気もする。といっても、役人への反抗は勇気がいることである。
 『翁長親方八重山島規模帳』に、次のような気になる記述もある。
 「与那国島の者どもで、何かうっぷんがあると放火するという悪質な行為をする者があり、以前から徐々に取り締まりを申し付けていたが、今以て止まず、人にあるざる行為、支配の妨げになり、はなはだ良くないことである。今後は右のようなことの二度と起らないよう詰役人も厳しく取り締まり、もし違反する者があったならば早速捕え石垣島へ引渡し、厳重に糾明し王府へ問い合わせること」
 この17年後に八重山に派遣された『富川親方八重山島規模帳』にも、同じことが繰り返されている。これらを見ると、与那国では厳重な取り締まりをしていても、不満の鬱憤晴らしのための放火がなくならず、たびたび発生していたことがわかる。
 こうした放火は、島民の私人間のもめごとに起因したような単純な犯罪だろうか。八重山のなかでも、放火取り締まりの記述は『規模帳』を見る限り、他では見られず、与那国島だけにある。
 放火は許されない犯罪であるが、これだけ再発するというのは、その背景に何かがあるのではないだろうか。
 そう感じるのは、長年取り締まっても再三、発生していることに加え、王府が「支配の妨げになり」、「政道の差し障り」になる(『富川親方八重山島規模帳』)と警戒していること、違反者は捕えて石垣島に引き渡し糾明した上で、わざわざ王府にまで問い合わせるよう命じているからである。
 これらからみて、島民への理不尽な圧迫と耐え難い重税、さらには役人の横暴な振る舞いなどに鬱積した不満や憤りがその背景にあるのかもしれない。考えすぎかもしれない。あくまで私の個人的な感想である。
 明治26年に琉球諸島を探訪した、笹森儀助の『南嶋探験』には、百姓が公然と役人らに抗議した事例が登場する。
 公費租税の未納を納めなければ、家財・牛馬まで公売にするという役人の問答無用の乱暴なやり方にたいして、百姓らが抗議の声をあげて、結局中止に至ったことが記されている。これは、別途また紹介する。  
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