レキオ島唄アッチャー

「冠船日記」を読む。遊女はいない

 「遊女はいない」と働きかける
 
 徐葆光が来琉した尚敬王の冊封(1719年)よりも150年ほど後、一八六六年の琉球最後の尚泰王の冊封の際は、遊女についての対応が様変わりした。
 冊封使が来る際には、わざわざ琉球から福州まで迎接使が迎えに行く習わしだった。その際、ただのお迎えというのではなく、中国側との事前の打ち合わせで使節団一行にたいする要望を、伝えることが迎接使の大切な仕事の一つだった。
                  封舟
               冊封使が乗船してきた封舟(冠船)
 王府から示された任務を記録した史料がある。迎接使だった真栄里親方(まえさとうぇーかた)の日記である。これによれば、次のような要望をしている。
 使節団の一行の人数は、できるだけ減らしてほしい。関係者に内々に申し上げて、ともあれ四〇〇人を超えないようにお願いすること。
 持参する品物は、琉球には必要のない物や高価な品物を持ってくるのははなはだ迷惑なので持ってこないでほしい、必要な物を持ってきてほしい。品物を五種類に分類して細かく注文していた。
 中国側への要望の一つに傾城(遊女)問題が入っている。かつては、遊女との付き合いは認めていたのに、この時は、一般女性だけでなく遊女との付き合いも排除しようとした。このため、王府が持ち出した理屈は、「遊女はいない」ということだった。「真栄里親方日記」から要約して紹介する。
 冠船の滞留中、トラブルが起きないように傾城は追い払う。遊女はいませんと前もって中国に伝える。滞在の館屋の近辺を遊女が密かに徘徊し誘惑すると困るから、厳密に追い返すよう那覇の役人に申し付ける。
 前々は、冠船の滞留したとき、中国人が遊女と付き合うことがあった。今回はつきあいを禁止する。迎接使が中国に迎えに行った際は、遊女はいないからよこしまな考えは起こさないよう取り締まりをよろしくと働きかけること。西欧など異国人にも遊女はいないと伝えてある。中国人につきあいをさせれば異人にも影響が出てくる。大変なトラブルが起きて、国難のきっかけにもなる、容易ならざることを深く吟味して、滞在中は遊女を引き払うこと。
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     遊郭のあった辻の「辻開祖之墓」の前で拝みをする「二十日正月」の伝統行事

 中国人に、琉球は異国船が頻繁に来着して、異人が逗留し、その姿を見るにつけ傾城は驚いて逃げて行った。また飢饉がおきて民は難儀しており、傾城と付き合う余裕がない。遊女も生活できなくなり、田舎へ行ったのでいないことを折に触れ説明しておくこと。
 このように、以前は認めていた遊女との付き合いを今回は禁止するとした。かつては認めていたことを禁止するならば、理由付けが必要である。でも禁止するだけの明確な理由はない。そこで持ち出したのが「遊女はいない」という理由である。「なぜ以前にはいた遊女が急にいなくなったのか」その理由がなかなか面白い。
 異人がよく来るので見て驚いて逃げた。飢饉で遊女と付き合うお金がない。遊女も暮らせないので田舎に行った。こんな理由をあげているが、あまり説得力があるとは思えない。でも、こうとでも言うしかなかったのだろう。
 このように、使節団一行と一般女性の付き合いの禁止だけでなく、遊女との付き合いも禁止した。ただし、これはあくまでも首里王府の対応の方針であり、この方針が実際に貫徹できたのかどうかはよくわからない。

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