レキオ島唄アッチャー

「冠船日記」を読む。唐人宿に出入りする

 商売に便乗して唐人宿に出入りする女性
 
1719年、尚敬王の冊封使が来琉した際に、首里王府の最高機関である評定所が記録した「冠船日記」を読んでいると、当時の首里王府にとって問題は、遊女以外の琉球の女性が、滞在中の中国人と付き合うことだった。
 「冠船日記」の「覚」には、次の記述がある。
 「(首里王府の)関知する傾城、(遊女)以外は唐人宿に立ち寄らないようにと固く禁令を布達してきたが、近頃では那覇近隣の間切(注・まぎり。いまの町村)の女性たちが唐人宿に出入りし傾城の仕方(振る舞い)で唐人と付き合っている者がいるとのことである」
 那覇近郊の村々からも女性が堂々と唐人宿に出入りして、付き合うことがよくあったようだ。「覚」の続きである。
「畢竟、(琉球の)国風の名折れにならないようにと以前から厳しく通達してきたにも関わらず、これに違反することは言語道断の所業である。この件は最重要な事案であり、琉球国の外聞(評判)にも関わり、(田舎女性による傾城行為は)不埒であるため、今後は横目を見回らせて違反者は必ず捕えて厳罰に処するものとする。また、(傾城行為者の)主人や親類、兄弟、拘主も処罰するので、すべての与中(注・くみじゅう。5人組全体)に厳しく通達し、その経緯を各地頭から誓約書を作成して提出するように管轄間切へ通達するようにせよ。
これは、三司官から、地頭衆に対して命じたもの。  
          那覇の市場
         徐葆光が来た当時の那覇の市場風景。『中山伝信録』から
           
 「覚」は、女性が唐人宿に出入りし、遊女のように振る舞うことは「国風の名折れ」「言語道断」「外聞にもかかわり不埒」と厳しく指弾している。この件は「最重要な事案」として重視し、見回りを強め、違反者は捕えて厳罰に処することを求めている。
 女性が唐人宿に出入りする理由は、ただ付き合いたいというだけではなく、商売が目的だったようだ。
8月23日付けの富川親雲上(ぺーちん)、富盛親方(うぇーかた)の「覚」では、民間人による勝手な商売は密貿易にあたるので、厳しい監視の目を向けている。「覚」は次のように記している。
 「三ツ宝銀(注・宝永7年=1710=に鋳造)・四ツ宝銀(正徳元年=1711=に鋳造)を古銀と取り交ぜて、唐人へ支払うものがいるという風聞がある。清国から脇商売(密貿易)の厳禁を通知されているところ、この趣旨に違反する者がおり大層不届きなことである。場合によっては国の御難題にもなるため、薬代の名目であっても(王府の)許可を得ない勝手な取引は一切禁止とする。
 唐人宿に無用の者が出入りすること、とりわけ女たちが唐人と交際することは厳しく御法度が通告されているにも関わらず、女たちが商売方に便乗して唐人宿に出入りしているとのことは大層不届きなことである。また、唐人側から米・薪木・豆腐を買い取ることについては、毎日、(王府からの)支給に支障が生じるので、下々の男女が唐人と商売することは一切禁止とする。右について、唐人に対して不正がないようにと以前から申し渡していた」
 このように「下々の男女」が唐人と商売することを一切禁止し、違反があれば処罰することを強調している。また、中国側にも「不正がないように以前から申し渡していた」と述べていることからも、中国側に不正があったことがうかがわれる。
当時、琉球と中国との交易は、すべて首里王府が管轄する国営貿易だった。中国から使節団の一行が持ち込んだ品物は、首里王府が一括して買い上げる仕組みであり、それ以外に民間人の取り引きは密貿易とされ、御法度だった。
 女性が、商売に便乗して唐人宿に出入りしていたといわれるが、当時、冊封使らの宿泊所だった天使館に近くに市場があったことにふれておきたい。
 徐葆光の『中山伝信録』(原田禹雄訳注)を読むと、「女集」の様子が描かれている。「女集」とは、「女性が集まる」ことではなく、「女性が運営する市場である」(原田氏訳注)。
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  「琉球新報小中学生新聞」8月10日付、「パワフルな琉球国の女性」のカカオマスさんのイラスト 
「現在、市場は辻の海ぞいの坂の上にある。朝夕二度、市がたつ。市には男はおらず、女ばかりが市を出す。魚・蝦・番薯(さつまいも)・豆腐・木工品・磁皿・陶器・櫛・草履といった粗末なものであけである」
  1663年の冊封使、張学礼の時までは、東町の天使館の横で那覇の市がたっていたが、この市場に集まってきていた那覇近郊の村々から来ていた女性たちが、唐人宿にも出入りしていたのだろう。 
 それにしても、女性たちが、商売方に便乗して唐人宿に出入りして、米や薪、豆腐など買い取ることがあったとは、ちょっと驚きである。というのは、漢方薬などは重宝されたが、米・薪・豆腐などは、中国特有の物産ではない、日用品であるからだ。もしかしたら、首里王府が滞在中の使節団の接待のために提供している食材、品物の一部だろうか?
 「覚」が日用品の買い取りは「毎日、(王府からの)支給に支障が生じる」ことを商売禁止の理由としている。
ここで参考のために、冊封使滞在中の接待(賄)について紹介する。1866年最後の国王、尚泰王の冊封の際の接待史料がある(『琉球冠船記録』の史料4「勅使逗留中諸物払総帳」)。節目や祝い事などでさまざまな進物や賄いがあるが、大きいのは、毎日の暮らしのための「毎日賄料」である。「毎日賄料」は、使節団一行の正・副使以下、職位によって、格差が付けられている。
 正・副使は、毎日上々白米1人1日5升、焼酎同5盃宛、菜種子油1盃宛、醤油、酢、上味噌、塩、麦之粉、中蝋燭、ナラ漬瓜、地漬瓜、同大根、豆腐、炭、豚肉、庭鳥、羊肉、玉子、生魚、塩魚、カサメ、西瓜、砂糖萩、薪木、野菜といった具合である。
 だんだん、職位が下がるごとに品質が落ちたり、分量が少なくなっていく。最も下のランクの「口粮月粮(こうろうげつろう)」(雑用に従事する使丁等)288人の「毎日賄料」の総量は、中白米585石5斗8升5合先、焼酎9758盃7合。その他、11項目の品目があるが省略する。焼酎の単位「盃」の分量は不明だが、50盃で中壺1本にあたる。この時の使節団は434(3人死去)人、滞在日数は137日だった。賄料のために供給された食料は膨大である。米だけを合計してみると953石7斗に上る。
 話しをもとにも戻す。
 女性が唐人宿に出入りして、日用品を買い取るとか、中国側の不正といった問題について、「このような行為は大層不届きなことと(上役は)お考えになっている。横目方にも巡回し報告するよう指示されているので、少しも手抜かりのないように各管轄内の与頭(注・くみがしら。5人組の監督責任者)を集めて直接通達し、与中の者たちに押印させ、その結果を報告せよ」と指示している。
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