レキオ島唄アッチャー

「冠船日記」を読む。女性との付き合いを規制

 規制された中国人と琉球女性の交際

 中国皇帝の勅使として、琉球国王の認証のためやってきた冊封使(さっぽうし)が、琉球に長期に滞在する際は、取り締まりをすべきことがいくつもあった。たとえば、琉球が薩摩藩に侵攻され、その支配下にあることを隠すために、薩摩の役人は那覇を離れて現在の浦添市城間(ぐすくま)などに隠れること、薩摩のことを中国人に話してはならないなどである。取り締まりの一つに、琉球の女性、遊女との付き合いの規制があった。
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             かつて遊郭があった辻の二十日正月の行事、ジュリ馬
 遊女は付き合いを認める
1719年、尚敬王の冊封使が来琉した際に、首里王府の最高機関である評定所が記録した「冠船日記」を読んでいると、女性問題についての記述がある。
 7月28日付け三司官(注・首里王府の大臣格。定員3名)の「覚」は、「(首里王府の)関知する傾城、(遊女)以外は唐人宿に立ち寄らないようにと固く禁令を布達してきた」と記されている。
 「傾城(けいじょう)」とは、中国で遊女のことを意味する。これはその昔、女性にうつつを抜かして「城を傾ける」つまり、国を亡ぼした人物がいたという故事に由来する言葉である。
 この「覚」は、「遊女以外は唐人宿に立ち寄るな」と述べているから、傾城・遊女が中国人と付き合いをすることは認めていたことになる。
 冊封儀式の時は、総勢400人から最大600人を超える使節団の一行が、琉球に半年余りも長く滞在するわけだから、女性との遊びや付き合うことはよくあったことだろう。那覇には辻、仲島、渡地(わたんぢ)という有名な遊郭があった。遊女は「尾類(じゅり」と呼ばれた。辻など遊郭と言っても、芸能や料理でもてなしがされ、芸妓の性格をもっていたという。
 「前々は、冠船の滞留したとき、中国人が遊女と付き合うことがあった」。1866年の琉球最後の尚泰王の冊封の際、王府から示された任務を記録した史料「真栄里親方(まえさとうぇーかた)日記」でも、このように記されている。だから、中国人が遊郭に出入りしたり、遊女と付き合うことは通例だったのだろう。
 宮城栄昌著『沖縄女性史』は、次のように述べている。
 「尾類は中国使節のよい慰めものであった。ことに冊封使が来島するときは、数百人のものが1年近くも滞在したので、為政者たちにとっては、良家の子女を護るためには、尾類に相手をさせた方がよかった」
といっても、中国使節団が遊女を歓迎していたわけではない。1663年に冊封使として来琉した張学礼は、使録に次のように記している。
 「人に嫁がない女が、父母を離れて一人で生活し、もっぱら他国の貿易客に接している。女の兄弟・親戚も、その女の客と交際することをけっして恥じとしていない。来てはじめてわかったが、琉球には娼妓が大勢いるとのことである。これを侏り(じゅり、「り」は漢字がない。亻偏に离の字)といっているが、実は傾城の音と同じである。外からの貿易はつぎつぎにくるのに、こんなものがいたのでは困るので、久米村の総役に書をあたえてその退治方を頼み、中国人を誘惑させないことにした」(訳文は宮城栄昌『沖縄女性史』から)
 このように、中国人を誘惑しないように取り締まりを求めたこともあったのである。
 その後、1672年、王府の摂政だった羽地朝秀が、「はじめて辻、仲島の二つの遊郭を設け、方々に散らばっていた尾類をここに収容して公娼制度を認め、監督を厳重にすることにした」(宮城栄昌『沖縄女性史』)。
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