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「親見世日記」を読む。唐船の武具

 「親見世日記」を読む。唐船の武具

 琉球王府の時代に、那覇4町(西・東・若狭・泉崎)を管轄していた役所、親見世(おやみせ)の業務記録である「親見世日記」を読んだ。親見世は、那覇里主(親見世の長官格、首里士族から選出)、御物城(おものぐすく、同次官格)を筆頭に那覇の行政全般を担当した。那覇港に入港する王府の公用船、進貢船、薩摩藩の民間船の出入港業務を行った。琉球に滞在した薩摩役人と首里王府の折衝役も担った。
琉球における武具について関心があったので、「日記」の中に、「兵具役」「兵具改」などの記述がよく出てくることに注目した。「「乾隆元年親見世日記(1736年)」から、いくつか紹介したい。

 親見世に兵具役がいた
 6月19日付け「日記」には、次の記事がある。
 「御兵具役の御拝(就任儀礼)が終わったので、御奉行所(注・薩摩から派遣された在番奉行の住居兼事務所)へ里主(注・さとぬし。親見世の長官格)の小禄親雲上(注・ぺーちん。中級士族に相当する者の称号)が同伴して新任のあいさつをした。他の薩摩役人へは自身であいさつした」。
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 兵具役に誰かが新たに就任したのであろう。就任儀礼が終わったので、薩摩から派遣された在番奉行に就任のあいさつに行ったことを記している。
 首里王府の機構には、武官系の役職、軍制はなかったといわれる。
 徐葆光(じょほこう)著の『中山伝信録』を読むと、琉球王国の官職定員の一覧の中に「武備司(兵具当)」が記載されている。これは、「兵具役」「兵具改」と同じもののようだ。
 王府の官職では、儀衛使と武備司は唯一の武官系の官職である。徐葆光は「儀衛使と武備司の外に、武官系の役職はほとんど省略されている。軍制と兵仗がくわしく書いていない」と指摘している。しかし、「武官は省略されているのではなく、なかったのである」(原田禹雄氏の訳注)。つまり、儀礼用の武具である儀仗はあっても、戦闘用の武具である兵仗と軍制はなかった。王府には、常備軍はいなかった。唯一、儀仗ではない武官系の役職として、兵具当、兵具役がいたことになる。
 那覇4町を管轄する役所の「親見世」には、兵具役があった。
 次の6月20日付け津灞親雲上名の「覚」は、兵具改の担当者が任命された記述もある。
「久米村四男の座間味子 右の者は兵具改筆者に任命された」と記している。
ここで、兵具改または武具改とは、琉球から中国へ渡航する渡唐船へ海賊対策のため搭載する武具類(大砲、鉄砲など)の確認検査のことを意味する。筆者とは、書記官のことである。
 なぜ、親見世には兵具役がいて、兵具改があるのか。中国皇帝に進貢した琉球は、皇帝が派遣する冊封使(さっぽうし)が来琉して、国王として認証された。中国から冊封を受けることによって、中国との貿易が許された。琉球から、年代によって違いはあるが通常、2年に1回くらいのペースで、進貢船を中国に出した。進貢使を迎える名目で接貢船も出していた。東南アジア、中国、日本、朝鮮との間で、活発な中継貿易を行うことで琉球王国は繁栄をしてきた。
 薩摩に侵攻されてその支配下になっても、薩摩の支配を隠ぺいして、薩摩の求める物産を仕入れるなど、中国との交易は続けられた。
 東シナ海を公開する琉球の唐船(とうしん)は、海賊から狙われたので、海賊対策のため、大砲や鉄砲など武器を薩摩から借りて搭載していた。
 唐船に積む武器類を保管し、確認の検査を行うために、兵具役や兵具改筆者がいた。
 
 
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