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国境の島・与那国島の役人たち

与那国島の役人たち

「国境の島・与那国島」の続きである。与那国島が遠海の地にあったため、行政が行き届かない面があった。赴任を嫌がる役人もいたと聞く。与那国島はどのような統治体制にあったのだろうか。
 『与那国島―町史第三巻~歴史編~』の髙良倉吉著「首里王府・蔵元と与那国島」から、八重山と与那国の統治と役人の特徴について紹介する。
 与那国島の統治体制は、琉球が薩摩に侵攻される前と後では大きく異なる。薩摩支配の前、古琉球時代も、「八重山全体を行政的に統括するための行政機関(後に蔵元と呼ばれる)があったはず」であり、その頂点にたつ「大首里大屋子」(後の頭)が複数いたと推定され、その下には首里大屋子(シュリオオヤコ)や与人(ユンチュ)、目差(メザシ)と呼ばれる役人たちが八重山の統治を担当した。
 重要な点は、「八重山の行政を担当するこれらの役人たちは首里・那覇から送られてくるよそ者ではなく、そのすべてが地元出身者だったこと」。「与那国島の行政を担った役人たちもまた島の出身者であった」という。
 薩摩侵攻後の近世初期、八重山は、一六二八年から石垣・大浜・宮良の三間切体制になるのだが、その直後に大きな変化が始まった。「それまでの伝統を見直して、首里から在番とよばれる派遣役人が来島し地元に駐在することになった」。
                    八重山の蔵元機構

  一六三二年春、首里から石垣島を訪れた視察団の一人、豊見城儀保親雲上が初代の八重山島在番となった。その後、一六七八年赴任からは、主任を在番、補佐役二名を在番筆者(ザイバンヒッシャ)と呼ぶようになる。派遣された在番の大半は首里の士族であり、一部に那覇や泊の士族が含まれている。在番は、蔵元とは別の場所に「在番方」あるいは「在番仮屋(ザイバンカリヤ)」と呼ばれる役所を構え、「八重山島」行政のお目付けの役割を発揮することとなった。
  八重山行政の拠点的役割を発揮したのが蔵元であり、総務や税務、産業、司法、戸籍、海事などを担当する様々な部門があり、そのトップに頭と呼ばれる三名の役人がいた。
古琉球から近世初頭にかけての島々や村々の役人たちは、首里城の国王から辞令書を受けた地元の者がその任に当たっていたのだが、一七世紀後半あたりから制度が大幅に変わり、地元の者を排除して蔵元から役人が派遣され、「よそ者」が、「我らが島や村に詰役人として赴任してくるという時代に転換した」。
                 
 動画は、与那覇歩さんの歌う「月ぬかいしゃ~どぅなんスンカニ」。「どぅなん」は与那国島のこと。与那国島に派遣された役人が任期を終え現地妻と別れ悲哀が歌わる。

  特別行政区としての与那国島
 与那国島は多良間島と同じように、両先島における特別行政区だった。そのために、与人一名+目差二名(『琉球国由来記』)という特異な組み合わがあった(通常は与人1人と目差1人)。
 詰役人や諸村筆者(耕作筆者や杣山筆者)、そして津端検者(ツバタケンジャ、納税業務が厳密に行われているか点検し、蔵元に報告する)といった役人が石垣島の蔵元から与那国島に赴任してきており、そのうえで統括的な業務を三人の頭が担当する、というのが特別行政区としての与那国島の運営体制だった。
 しかし、島に赴任してくるよそ者の働きのみで与那国島の行政が成り立っていたのではない。詰役人たちの下で働く与那国島地元の人たちが勤める下級役目が存在した。

 翁長親方八重山島規模帳』(1858年)によると、
 世持(4名※)、田ぶさ(4名※)、村小横目(2名※)、山溝(3名※)、札持頭(4名※)、馬ぶさ(3名)、村佐事(1名)、村筑(1名)、女頭(女6名)、布晒(女4名)。
 という名前の役目が存在した。このうち※印がついているのは「頭迦(ズハズレ、注・1点シンニュウ)」と注記されているので、納税義務は外れた51歳以上の男子であり、それ以外の役目は納税者が勤めた職である。
百姓役目と称されたこれらの職については、『富川親方八重山島諸村公事帳』(1875年)は次のように説明している。
世持・田ぶさは、毎朝、百姓たちを確認し、野良に出て農作業に精を出しているかどうかを監視して、担当役人に報告する仕事を担当する。
 
  村小横目は、村の掃除が行き届いているか、ニワトリや豚の飼い方は妥当か、菜園の手入れはきちんと行われているか、野良仕事をさぼり海岸で遊んでいる者はしないか、などの監視仕事を担当する。特に与那国島のこの役目は船筑を兼務し、毎年石垣島に出張して蔵元の総横目(ソウヨコメ、頭に次ぐ職)に島の状況を報告する仕事も担当する。
札持(フダモチ)頭は、木材の伐採などで島民が使役された場合、負担が公平に行われたかどうかを点検し、また、島に漂着あるいは寄港する船があった場合に、担当役人をボートに乗せてその船までで漕ぐ仕事を担当する。
村筑(ムラチク)は、様々な税を徴収する際に、その額が適正に測られたかどうかを現場立ち会いのうえで監視する仕事を担当する。

  村佐事(ムラサジ)は、「御用布」(税金としての布※)上納に関する業務を女頭と協力して行い、また租税負担が規程に基づき適正に賦課されているかどうかを点検する仕事を担当する。
 ※御用布としているが、御用布は、王府に納める布であるが、頭懸け(一人ひとりに賦課する)の上納米の代用物としての上布とは別に、特に指定された布をいう(『富川親方八重山島規模帳』解説)ので、ここは、御用布より貢納布か貢布とするのが適切ではないか。
 女頭(ブナズィ)と布晒のうち、女頭のほうは女性の納税者の点検に関すること、また「御用布※(同上参照)」の製作作業を管理する仕事を担当する。布晒(あるいは布晒人)のほうは織り上がった布を干したり、海水に晒したりする作業を管理する仕事を担当する。
  山溝に関する説明はないが、名前から推察すると、おそらく山林や林野の保全を監視・管理する仕事を担当した役目だと思われる。
  その他に「牧当(牧場の管理)」「嶽当(聖所の管理)」「かん当」「目入」「浜屋番(船具など入れた小屋の管理)」といった役目も存在した。
 近海を通航する船舶の動きを監視する遠目番も存在した。与那国島には12人が配置されていた。この仕事も百姓役目の一つであり、島民の負担であった(『翁長親方八重山島規模帳』)。
このように、与那国島の住民たちの負担や下働きがあって始めて、島の行政運営は成り立っていたのである。

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