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「冠船日記」を読む。徐葆光の提言

「冠船日記」を読む。徐葆光の提言

 1719年に冊封使が来琉してきたさいの、貿易をめぐるトラブルについて「冠船日記」から紹介した。この時の、冊封副使だった徐葆光(ジョホコウ)著『中山伝信録』を読むと、持ち込みの品物の買い取りをめぐる首里王府とのトラブルについて詳しい記述はないと書いた。ただ、同書の中に、これまでの歴代の冊封使一行の貿易についての歴史的な経過が記述されている。しかも、中国側の改善についての提言も記載されていて興味深い。
 すでに、アップした「冠船日記を読む。貿易をめぐるトラブル」の中で、紹介した夫馬進編『増訂使琉球録解題及び研究』の岩井茂樹著「蕭崇業・謝杰撰『使琉球録』解題」「徐葆光撰『中山伝信録』解題」からの紹介部分は、徐葆光著『中山伝信録』の記述を岩井氏が口語訳をして、引用したものだ。ただ、私がいま読んでいる『中山伝信録』は、原田禹雄氏の訳文であり、表現に少し違いがある。それで、もう一度、原典の『中山伝信録』から原田氏の訳文で紹介しておきたい。
            天使館 むら咲むら
       冊封使が宿泊した天使館を復元した建物。読谷村の「むら咲むら」にある
 琉球での貿易の歴史的な経過についての記述は、「渡海兵役」の項で、<>書きの注記のような形で記述されている。
 <兵役と随身の行李貨物は、一人あたり百斤以内とされている。従来の封舟の過海(渡海?)の兵役などがすべて圧鈔貨物を携帯して、到着してから商売するのを慣例としていた。万暦7年己卯(1579)、冊使の長楽の行人の謝杰が『日東交市記』を記している。後に、「恤役一條」というのがあって、次のように述べている。
 「洪武年間(1368-1398)から、渡航する500人は、一人あたり百斤の行李を携行して、琉球人と貿易することが許可されている。記して条令とする」と。
甲午の役(1534、陳侃)では、1万金の所得があったが、500人で平均すると、一人当り20金、多い者は3、40金、少ないものでも10金から8金の所得があった。辛酉の役(1561、郭汝霖)では、所得はわずか6000金で、500人の平均は12金、多いもので20金、少ないもので5、6金にしかならず、いささか失望させられた。このために己卯(1579、蕭崇業)の募集では、まあまあの人材で数をそろえることができたが、以前のような立派な人材をそろえることができなかった。所得はわずか3000金あまり、一人当り8金で多いものでも15、6金、少なければ3、4金で、はなはだ失望させられた。 そこで、公金を支給して色をつけてやり、どうにか式典を無事すませて帰国することができた。
思うに、甲午の役では、外国船で貿易するものが、およそ10カ国あまりあって、貿易による収益が多かったので、わが国の人々の所得もゆたかであった。辛酉の役では、外国船で貿易するものがわずか3、4カ国にすぎず、貿易収入がすでに少なくなっていたので、わが国の人々の所得も減少した。己卯の役では、海外との貿易禁止はゆるんだが、外国船が来ないので、貿易収入がすでにないといったために、わが国の人々の所得もいたって少なくなった。時勢が、そうさせたのである。
康熙22年葵亥の役(1683、王楫)にあっては、ちょうど海禁は厳重であった。中国の貨物を、外国は争って購入しようとしていた。琉球に近い諸島、たとえば薩摩の国や吐噶喇七島では、風評をきいて集まってきた。そして、貨物はとぶように売れた。福建の人は、これを言いつたえて現在に至っている。従って、兵役に応募するものが多い。平和がつづき、琉球は年々、進貢という形で中国の貨物を貿易していて、外国にもゆきわたっている。このたびの封舟が到着してのちも、吐噶喇などの外国船は一隻として来る ものはなかった。
この国は、もともと貧乏で、貨物はそれほど売れない。人民も兵役も、どちらも困ることになる。法によって、商売の利益の追求を禁止すべきである。公務に従事するものは、従者の数をへらし、貨物もへらせば、一つは小さな邦の支出の負担をゆるめ、一つは渡海者の濡れ手に粟の思いをとどめることができよう。どうか、双方の利益がともども矛盾なきようにしたいものである>
 これを読み、注目されるのは、琉球は「もともと貧乏で、貨物はそれほど売れない」とはっきりと認めていることである。使節団が持ち込んだ品物の買い取りをめぐっては、中国側が「いくら琉球が貧乏国だからといって、六〇〇〇や七〇〇〇貫の買い物はできるはずだ」などと言って、随分と琉球側に迫ったために、騒ぎにまでなったことを紹介した。
 しかし、冊封使は、一連のトラブルを通して、琉球の実情もわかり、持ち込んだ貨物の一括買い取りが無理であることを認識したのだろう。外国船も琉球に買い付けに来ないという情勢の変化もある。
                 首里城中秋の宴の2
          徐葆光も見た首里城での「中秋の宴」を再現する催し
 こうした琉球の国情や情勢の変化を度外視して、大量の貨物を持ち込んでも、琉球の人民や中国側の随行員、兵役のどちらも困ることになると見ている。ここには、琉球滞在と貿易をめぐる一連の経過を通してのリアルな認識がある。ある意味での反省が込められているようにも感じられる。
 その上で、改善の提言がある。眼目は、「法によって、商売の利益の追求を禁止すべきである」ということ。「公務に従事するものは、従者の数をへらし、貨物もへらす」ことを求めている。1719年の使節団一行は、なにしろ649人にのぼる。それまで400人~500人規模が通例だったのに比べて、けた違いに多かったのだから、当然の措置である。
 従者も貨物も減らすことによって(1)小国である琉球の負担を減少させる(2)中国からの渡海者の過大な利益追求を思いとどめさせることができるとする。「双方の利益がともども矛盾なきようにしたい」という徐葆光の思いは、冊封使としての使命を踏まえた大事な指摘だ。
 ただし、その後この提言がどれほど生かされたのかはよくわからない。
 1866年の琉球国最後の尚泰王の冊封の時にも、事前に使節団についての要望を中国側に伝えていた。
たとえば、使節団の一行の人数は、できるだけ減らしてほしい。関係者に内々に申し上げて、ともあれ四〇〇人を超えないようにお願いすること。
 持参する品物は、琉球には必要のない物や高価な品物を持ってくるのははなはだ迷惑なので持ってこないでほしい、必要な物を持ってきてほしい。品物を五種類に分類して細かく注文していた。
 国王の冊封は、琉球にとって国家をあげての最大のイベントだった。だが、その裏で王府と国民の負担はとても大きく、最後まで労苦がつきまとったことに変わりはない。
 
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